文庫本が出るたびに購入した五木寛之の小説『親鸞』(上下三部作6巻)を読み終えた。
小説を読み始めたのは高校3年生と遅い、運動部に入っている男子にとっては、引退してから色々なこととの出逢いが始まる。
同じクラスにいたT君はバイク通学をしていた。彼は当時から眼鏡を掛けて賢そうな帰宅組、部活を引退するまで彼の私生活は見えなかったのだが、他のクラスが羨むほどほぼ全員が仲の良いクラスだったので、受験生とはいえ緩やかな時代だったし、部活を引退した開放感のなかで仲間からの刺激が楽しくて、おのずと彼との親交も深めていった。当時は那覇港近くに住んでいた私であったが、ある日(学生服のままだったか、私服だったか)T君の自宅に近い当時いちばんの繁華街である国際通りの牧志にある、モッキンポットというテーブル、カウンター合わせて15席くらいの喫茶店に仲間数人と行った。私にとっては初めての喫茶店だったが、T君はここの常連で、マスターといえば当時かなり大人に感じたが、いま思えば二十代後半から三十代の始め位だったのではないだろうか、ロングヘヤーの髭面(記憶が正しければ)で愛想よくサイフォンで珈琲を淹れていた。コーヒーといえばインスタントしか知らない私にとって、ここで覚えた珈琲と煙草(時効ということで(笑))は大人への入り口だったのであろう・・・
その後、しばらくして仲間とT君の自宅に遊びにいった。いま私の実家のある牧志の家から歩いて5分ほどの所にある赤瓦の家屋で、親父さんは鉄工所を営んでいた。彼の部屋は三畳ほどで、たしか畳1枚が乗っけられた(手作り?)ベッドが備え付けてあり、流行り音楽主体の私の部屋と違い、机や壁には自作の美術品や小説が並んでいて大人の空気が漂っていた気がする。この部屋はお互い二浪して彼が東京、私が京都に進学するまでお世話になったのだが、二人だけや仲間と徹夜で過ごした日々が懐かしく蘇る。小説好きの彼が星新一、北杜夫、そして五木寛之の『青春の門』を貸してくれて読んだのが小説への入り口になったのだった・・・
部活仲間、音楽仲間、帰宅組、それぞれの個性から刺激を受けた高校時代はほんとに眩しい。先日、高校野球全国大会地方予選で出身校がベスト4まで進出して、甲子園に出場するかもと胸をときめかせていた。残念ながら敗退したが、還暦になる年に青春時代が蘇り、また新たな人生の意欲を掻き立てる出来事になったのには感謝だ。
3月には音楽を通して親交の深かった同級生が逝ったし、卒業後すぐに交通事故や病気で逝った同級生もいた。これからは、ますます身近な人たちとのお別れ(私が先かも知れないが(笑))を経験していかねばならない。今なお偉大な僧侶の一人として語り継がれている親鸞だが、小説の中では多くの事に苦悩し、最期はただ枯れるような死で表現されていた・・・
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みさこ (火曜日, 19 7月 2016 20:33)
五木寛之の本は好きでエッセイ集はよく読むけれど、小説は読んでないなー。仏教を頭で理解するのではなく、心情に訴えるには小説が良いのかも・・・・いずれ「親鸞」に挑戦してみようと思います。
ともさん (月曜日, 25 7月 2016 19:49)
京都に長年住んでると
一段と情景が浮かんできましたよ~