母校の先輩たちが・・・

※7月9日掲載分に加筆し変更しました。

 

私は6年間で3つの小学校で学んでいる。小1~小3の1学期までは、宮崎市に隣接する田畑や山河に囲まれた、自然豊かな国富町の長閑で小じんまりした本庄小学校(写真は去年訪れた時の校庭→姉二人と兄はここを卒業している)で学んだ。その後2学期から4年生までは復帰前(アメリカの統治下)の沖縄で、那覇市に隣接する当時まだ自宅の前は幹線道路を挟みアメリカ軍の広大な基地があった浦添村(今は浦添市)で、仲西小学校という1学年10クラス以上あったマンモス校(当時はクラスにはアメリカ系のハーフの子も2、3人いた)で学んだ。そして、小5、6年は父(大正3年生まれ)も通った那覇市の天妃(てんぴ)小学校という小じんまりした(たしか運動会になると隣の上ノ山中学校のグランドを借りた記憶が??)所で学び、卒業を迎えた。

 

父は転勤族だったわけではないが、その6年間は家族にとって激動の時期で、幼い私はそれに翻弄されたのかもしれないが、お陰で、色々な子ども達と学び遊べたことは、今となっては貴重な財産である。ここで、その様子を書こうと思うと小説にでもしないと収まらないので控えるが(笑)、最終的に父が尋常小学校当時に通っていた天妃小学校(男子のせいか、子どものころ天妃という校名が女性的で恥ずかしかった?(笑))の同窓になったのは、何かの因縁なのかも知れない・・・

 

~ここまでは序章~

 

先日、住まいのある宇治市の図書館に訪れた際、お薦めコーナーに何気なく目をやると、『対馬丸』(大城立裕・著 講談社文庫)の文字が心の眼に飛び込んできて、すぐさま手が伸びてしまった。太平洋戦争の末期、沖縄での地上戦が始まる前の夏(昭和19年)に、学童疎開のために九州を目指していた船団の中の1隻がアメリカの潜水艦に撃沈され、学童、一般あわせて1661人(うち学童834人)が海に投げ出され、学童である6歳から14、5歳の生存者は僅か50数人という悲惨な事件である。

 

ここで、本の解説を長々と書く訳にもいかないので結論を先に書くが、天妃小学校(戦時中は国民学校と称された)の学童も90名近くが犠牲になっていたのだ・・・

 

その後は私の家族達も命からがら九州に疎開し、10月10日には那覇市の9割が焼失する大空襲があり、翌年3月20に沖縄戦が始まる直前までに延べ187隻の船が日本本土や台湾に疎開者を運んだそうである。

 

今まで、沖縄戦の詳細は知ろうとはしなかった。(重たいので避けていたのかも・・・)しかし、辺野古問題や戦後70年の報道や憲法改正問題などて、私の心も正面から戦争の記録を見詰めざる負えなくなている。あの時、私の家族が『対馬丸』に乗船し犠牲になっていたら、私は当然、生まれてないから存在していないし、天妃小学校の多くの先輩方も犠牲になったと知ったことで事件の身近さを感じ、一段と反戦への思いがつのってきた気がする。

 

十年ほど前に対馬丸記念館が開館したということなので、9月の父の七回忌で帰省する際には、記念館を是非とも訪れなければと思う日々である・・・

 

 

  天妃小学校の校門(開くことはないが)の一つ上天妃宮跡の石門が戦火を逃れ今もある

 

 天妃宮は航海安全の守護神ということだが、戦争という人災からは対馬丸は守れなかったということか・・・

 

     

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