年末年始の帰省から、わずか2カ月で再び沖縄行きの機上の人となり、1週間まえに戻ってきた。
3月4日、午後10時前のこと、2月初旬にホスピスに入所した上の姉に贈る為に歌い作成したCDを試聴しながら、うたた寝をしてしまったところに、下の姉から上の姉が永眠したことを知らせるメールが入った・・・
諸々の都合が重なり、告別式は奇しくも亡き母の誕生日に中る3月8日になり、それに合わせ仕事に都合を付け、7日の朝に飛び立った。
午後に通夜の行われる斎場に到着して亡き姉に対面すると、13年前に他界した母の顔そっくりになっていた・・・
真っ白な雲の上を深い青空がどこまでも続いていて、まるで姉と一緒に飛んでいる気がした・・・
閏年の昭和19年2月29日に二女として那覇市で生まれた姉は3月10日に出生届けを出し、太平洋戦争の迫りくる沖縄での地上戦を逃れるために、家族で命からがら九州に疎開をさせられた。しかし、疎開先の大分で長女が病死し、終戦後は沖縄に戻れなく、縁のあった宮崎で高校卒業までを過ごした。(その間は父の仕事の都合上、三女が宮崎市、長男が旧八代村、二男の私が国富町で生まれた)
ここで姉の人生を振り返ると膨大になってしまうので、ひとことで言うと、その名の通り人々を『潤す』人だった。それを如実に現すことに、家族葬の予定が会葬者が二百人を超える告別式になったことで判るのだ・・・
姉が74歳になるはずだった誕生日の10日は、初七日の法要と同時にお別れ会が行われた。所属していたおかあさんコーラスの皆さんによる唱歌、童謡そして、姉達が好んで歌っていた『いのちの歌』が歌われた。
♪生きていることの意味 問いかけるそのたびに・・・
♪本当に大切なものは隠れて見えない・・・
♪誰でもいつかはこの星にさよならを・・・
♪・・・
未だに耳や心の底にこの歌がこびり付いて離れず、リフレインして目頭が熱くなる・・・
今日は姉が大好きだった亡き父の誕生日だ。きっと父母に逢えて幸せに違いない。
妹や弟達がこの世での役目をしっかり終え、そちらに行くまでいっぱい甘えてね・・・
京都に戻る当日、心の整理がつかないままでは帰れないので、実家から30分ほど歩いた泊港まで歩いて海を眺めにいった。
沖縄を出て40年以上になる。大切な人々がたくさんあの世に旅立ったな・・・
悲しく寂しさが募るが、全ての出会いに感謝です!
そして、那覇空港を飛び立った・・・
また、帰ってくるね・・・
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律子 (水曜日, 21 3月 2018 00:06)
潤子お姉さんのご冥福をお祈りいたします。
本当の誕生日2月29日でしたか!3年前お姉さんたちと会った、日南に住んでいる私の従姉も29日で同じだったのですね。
本当にあの時は、あまりよく知らないのに懐かしさで楽しい一日を過ごすことができました。あの時の写真を見ながら悲しみがこみ上げてきました。お土産もいただいて、大切に使わせていただいています。皆さまのご心中お察し申し上げます。
ともさん (日曜日, 25 3月 2018 13:16)
そうだったんですね。
有難う御座いました。