命の繋がり

 この年末年始、やっと589ページの大作『永遠の0』を読み終えた。

 

もう二カ月以上まえになるが、闘病中の友人や高齢の叔父の様子を伺いに沖縄に帰った。叔父は5年前に95歳で亡くなった父の一番下の弟であり、現在88歳である。すでに父やその他のきょうだいは亡くなり、1年ほど前から施設に入ってはいるが、まだまだ元気で父に似て読書好きな人である。その部屋の机に今話題の小説『永遠の0』が置かれていたのだが、一緒に訪問した次姉(長姉は戦後すぐに幼く病死)が叔父に差し入れした本で、面白かったのでとっくに読み終わったということだった。すでに三姉や兄は読み終わっていたのであろう「じゃ~あんた読みなさい」と次姉が私に与え、沖縄からはるばる京都へ連れ帰った(笑)ものであった。

 

その2日前は、きょうだいが兄の住む実家に手料理を持ち寄り、いつものように亡き父母中心の昔話に花が咲いた。そんな最中、三姉が私に2本のカセットテープを渡した。昨年の1月30日に行われた父方の祖父の33回忌に先述した父方の叔父と母方の叔父にそれぞれ昔話を聴き録音したものであった。

 

偶然なのか?大いなる者の導きなのか?この二つのプレゼントには接点がある。それは、先の太平洋戦争での沖縄戦である。小説とは言え『永遠の0』には太平洋戦争が詳細に書かれて(昭和31年生まれの著者は私と同じ年齢で驚きである)いる。小説の終盤、いよいよ日本の敗戦が濃くなってきた沖縄戦の始まる前の昭和19年2月末に次姉は生まれている。

 

そして、沖縄を最後の砦とした日本軍にアメリが軍が侵攻を開始しだし、いよいよ危ないというときに船による本土への疎開が始まる。テープを聴くと「一緒に疎開した中には誰がいたの?」と三姉が尋ねている。昭和19年の10月10日に那覇は大空襲で焼け野が原になっているから、たぶんその年の夏であろうが「祖父(この時の年齢を計算してみると今の私くらいの齢)、祖母、学生だった叔父、母、長姉、生まれて半年ほどの次姉、他に・・・・」と叔父は答えている。疎開船と簡単にいうが、今なら一昼夜航路の那覇~鹿児島?間を敵に見つからないように島伝いに10日ほどかけたと(叔父だったか?)聞いた覚えがあるし、その8月22日には学童疎開船の対馬丸が撃沈され学童800人近くを含め1400人位が亡くなっている。(ネットで調べていると、YouTubeでドキュメンタリーアニメ 『対馬丸さようなら沖縄』というのを見付けた)そして、疎開先の九州でも列車での移動中にアメリカ戦闘機の機銃による攻撃で九死に一生を得た話も録音されていた。

 

 戦局がますます悪化し母方の祖母等が・・・その後、父は撃沈が多発して他の人が引率を嫌がるなか、県の職員として疎開者を(疎開船は翌年3月まで出たようだ)引率し九州に渡ったようだが、どのようにして合流して大分県の豊後竹田(ここで長姉は病死している)で終戦を迎えたのかは、亡き父母から聞き出せてないので判らない。

 

 那覇の10/10(じゅうじゅう)空襲で人々は北へ南へ散り散りに逃げた。その後の地上戦で、(アメリカ軍の沖縄本島上陸は昭和20年4月1日)最も悲惨なことになった南部のことはここに載せるまでもないであろう。泡盛の造り酒屋を営んでいた母方の祖父は北部に逃げ死んだ・・・そして、今は慰霊の日になっている翌年の6月23日に、沖縄におけるアメリカ軍に対しての日本軍の組織的な抵抗は終結した。

 

 父母にとって、戦後すぐ長姉を亡くした悲しみは計り知れない。その後、両親は宮崎県に住むことになり、昭和22年に三姉、24年に兄、31年に私が生まれ、昭和40年にまだアメリカ統治下の(日本復帰は47年)沖縄へ帰るまでを過ごした。

 

 

 正月早々に話が重くなったなぁ~

 

書き綴ってきたことには、私が思い込みで書いた部分があるかも知れないし、悲惨なのは沖縄だけではないのは承知である。とは言え国防のため尖閣列島、辺野古、オスプレイなど、ここのところ軍事強化問題が見え隠れする沖縄である。しかし、年末の友人からの投稿のように、大事なのは『永遠の0』の一番のテーマである『命』の重みである。両親には戦中戦後と綺麗事では済まされないことも多々あっただろう。そして、あの戦争のどこかで両親のどちらかが命を落としていたら・・・

 

と考えると、この年齢になったといえ、意味あってこの世に生を受けたのを実感できる。過去に『心の時代に思うこと』にも書いた記憶があるが、命の繋がりの意味を後世に伝えながら、『今を生きよう』と改めて思える新年となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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