2017年

6月

18日

命の話

このところ、上野動物園のパンダの子育ての報道で賑わっている・・・

 

昭和三十年代の宮崎の田舎町、ほとんどの家がそうであったように小さな自宅の離れに五右衛門風呂があった。

ある日の夕方、風呂釜を沸かす薪をくべたあとの父の姿があったのだが、その手はしめた後の鶏と、羽を赤々と燃える焚口にむしりながら放り込んでいたのであった。(当時の田舎では、どこの家庭でも栄養をつけるための当たり前の光景だったのであろう・・・)

 

私は5、6歳ぐらいだったであろうか、その日の光景以来、小学生の間?は鶏肉が口にできなくなってしまった。

 

先日、自宅マンションのベランダに、鳩がつがいで頻繁に飛来するようになっていた。以前、すずめの糞尿被害の経験から「こんなところに巣作りされたら困る」と家族で追い払っていたのである。ある日、妻が管理人さんに「隣の棟の誰も乗っていない自転車の前カゴに鳩の雛が孵っていたのだが、誰かが処分してしまって、突然いなくなった雛をその鳩のつがいが捜しているようだ・・・」と聞いてきて、家族で切ない思いになってしまった。

 

スーパー等にきれい陳列されている様々な肉は美味しい、それが親きょうだいから切り離されてトサツされて商品になっていると、現代人はどれだけ意識しているのかな・・・ 

 

今日は父の日だな、宮崎や沖縄で命を救う獣医をしていた父は、六十歳半ばから八十歳まで食肉検査所で嘱託獣医をしていたが、その頃から肉をほとんど口にしなくなったように思う・・・

 

 

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2017年

5月

27日

爽やかな朝

 五月に入り夏日が多く爽やかな日の記憶がなかったが、今朝の宇治川は写真の通りに青空に新緑にサツキ?そして澄んだ空気に穏やかな川面が心地よかった。

 

人生は修行で、その九割は思い通りにいかない。でも残りの一割は無心に物事に取り組んでいると、「上手くいったかな?」と思える瞬間がある。

 

だから、人は生きていけるのかな・・・

 

宇宙から地球を眺めると、その美しさに人生観が変わると、ほぼすべての宇宙飛行士が語っている。

 

地上の人間1人ひとりの行いを地球は母親のように包み込んで、時期が来れば何事もなかったように美しい自然の姿をみせてくれている。

 

でも、人口が70億を超えた現在、1人ひとりが欲望をむき出しにし続けたら・・・

 

たぶん地球というすべての生命体の母親は病むだろうな・・・

 

そんなことを思う皐月の爽やかな朝であった・・・

 

 

 

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2017年

4月

29日

北風と太陽

この所、東アジアの海上が物々しい。

 

半月ほど前だったか、アメリカの副大統領が来日したときの演説で「平和は力によってもたらされる」というようなコメントをしていた。

 

ならば、人間とはその誕生から今日まで、今もなお他の動物と何ら変わりない(力の強いものが他を支配する)存在なのかな・・・と淋しく思った。

 

写真は3月の彼岸に帰省し、きょうだいで普天間基地の視える嘉数高台に登ったときにデジカメで撮った写真である。(この辺りは先の大戦で激戦地だったようで、数千人の京都出身の兵士を慰霊する『京都の塔』が近くにある。他にも南部には各都道府県の塔があるが、また戦争になれば沖縄だけが犠牲になるのではなく、全国の多くの若者が出兵して戦死してしまうということを、どれだけの国民が想像できているのだろうか・・・)引き伸ばしたのでボケてよく視えないが、右側の滑走路にはオスプレイ数機のプロペラらしきものが視えているし、ここから北側に少し離れた所には、さらに広大な嘉手納基地がある。

 

そんな帰省中に、兄から『消えゆく沖縄 仲村清司=著 光文社新書』、姉から『マザー・テレサ愛の贈り物 五十嵐薫=著 PHP文庫』を読めと持たされ、やっと読み終えた。『消えゆく・・』は沖縄出身の家族の元で大阪に生まれた私と同世代の著者が、20年前に沖縄に関わりたいと移住し、今日までの劇的な変化を憂いながら綴ったものである。私も帰省の度に感じることだが、50年前から40年前まで過ごした日本一貧しかったであろう当時の沖縄の長閑な風景がどんどん消えていっているのだ。それは基地の代償としての補助金による経済発展が原因なのか?国内外の経済競争に巻き込まれたのが原因なのか・・・

 

今後も普天間基地が返還されれば、また経済発展して街が大きくなるだろう。そして、辺野古が埋め立てられ、基地ができれば豊かな海の恵みが無くなるだろう。今はまだ美しい海や独特な伝統文化を求めて国内外からの観光客が増え続けているが、防衛のためや、経済発展で豊かな自然が食い荒らされ尽くしてしまった時に、沖縄に(世界中の自然に言えることだが)どんな魅力が残っているのであろうか?後で反省しても一度破壊されてしまった自然は戻らない・・・

 

そして、もう一冊の『マザー・テレサ・・・』には、あのアメリカ副大統領のコメントと全く正反対の行動による平和がそこにはあった。私にはあの副大統領のような力による平和観も無ければ、マザー・テレサのような慈愛に満ちた平和観も無い。

 

しかし、そんな私でも、幼い頃に読んだ『北風と太陽』のイソップ寓話は今も心に残っている・・・

 

地球は一部の富者のものではない、環境が再生できるうちに皆で気付いて、後の世代のあらゆる命に渡したいね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年

4月

22日

年度始め

 今年の桜も終わった・・・

 

京都に住んで何と40回の桜の花を迎え見送った。そして、この年月に多くの人々に出逢い、多くの大切な人々を見送った。

 

60年の人生はそこそこ長い年月だな・・・

 

40歳で本格派珈琲とランチの店を廃業し、41歳から60歳の年度末まで務めた大手企業を退職した。調理師として工場給食と外食に携わり、49歳で母とのこの世での別れと同時に管理職になり部署をまとめ、50代半ばには父とこの世での別れを経験した。50代後半には部署が業務委託となり思わぬ部署への移動、そして昨年の春に若き時代から音楽を一緒に楽しんだ親友と、この世での別れを経験し10月に60歳となった。再雇用とはなったが、長年サラリーマン生活で苦労された方々のような人生は選べない・・・

 

昨春から密かに求職を続け、4件目に思わぬタイミングでトントンと保育園の調理師として正職を得た。調理師とはいえ、50歳代の10年間は管理職、そして異業種への移動で座り仕事の多かった高年者が、また立ち仕事に戻るのは覚悟はしていたが、かなりハードである。2週間目でやっとペースに慣れ、若い同僚達には「覚えが早い!」と言わせているが、60歳のおじさんは肩や腰の疲労に笑いながら耐えているのだ。

 

調理師も保育士もほぼ20歳代!新年度、若手職員が風邪や疲労でダウンしている中でも、日々の仕事や研修や行事にもおじさんは負けずに追いていく覚悟をしているのだよ(笑)

 

睡眠や銭湯、簡易マッサージ機、ストレッチ、音楽、本、芸術、美味しい物、そして瞑想やコミュ二ケーションを上手に利用する術を持っているから、若者には負けないよ(笑)

 

そして乳児、幼児の元気に生きる姿や声を励みにして日々を過ごす術もね・・・

 

 

 

 

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2017年

3月

31日

年度末

 今日は平成28年度の最終日、写真には先日に帰省してきた沖縄の海に沈む太陽を載せてみた。

 

今日は生憎の雨であるが、京都はやっと桜の開花宣言があった。例年より1週間ほど遅れたので、見ごろは来週末あたりかな?

 

さて、明日から新しい職業に就く。その研修会が昨日あったのだが、その中で講師が『スモールステップの重要性』を説いた。

 

「還暦だからもういいよ・・・」「齢だから・・・」「いまさら・・・」「周りから何と思われる・・・」

 

若い連中に混じると、言い訳したい感情が頭をもたげる・・・

 

でも、挑戦しなければならない人生を選び続けると若い頃に決めたのだから・・・ 終身現役を楽しんで生きよう・・・

 

「で、何をするかって・・・?」 ま~ それは追々・・・(笑)

 

 

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2017年

2月

19日

二十歳の原点

 三寒四温、京都も少しずつ春に近付いている。

 

さて、高3時代はとても仲の良いクラスで、その仲間の1人のT君から小説を読む楽しさを教わったことは以前に書いた。他にも女子のKさんから『二十歳の原点』という本を貸してもらい読んだことがある。

 

1週間ほど前に、NHKの『かんさい熱視線』で「悩んで、もがいて、生きて、私たちの“二十歳の原点”」という番組をやっていて、その当時が蘇ってきて釘付けになってしまった。(今年、二十歳になる大学生の息子も同世代の学生たちの言葉に釘付けになっていたようだ。)

 

私が読んだのは42年前であるが、今だに悩み多き若い世代に支持され重版を繰り返し読まれ続けているらしい。内容は著者である立命館大学の学生であった高野悦子さんが

雪の残る先週の京都、出町柳で加茂川と高野川が合流した鴨川の橋の上から比叡山を望んだショット(本に出てくる広小路に有った立命館や同志社そして京大を結ぶ中間地点、私の通った?学校も近くにあり、アルバイト先のコーヒーショップで出会った各校の仲間とよく飲みにも行った。そんな思いで深い界隈)

日記形式に書き続けていたものである。二十歳になった年に京都で自殺をした後に、遺族がまとめられたのが本になり、1971年(その時の私は中3だな)に新潮社から刊行されたということだ。

 

当時の私は仲間と楽しい日々を送り続けていたので、表面的にはこれからの人生を思い悩むことはなかった。ただ、『自殺』という内容にとても衝撃を受けたことを憶えている。そして今になって思うことだが、やはり本に影響を受けたのか、その後の私は沖縄最大の戦場であった南部を十何時間かけて歩いた。さらに、浪人が決まった年には船で東京に出て、予備校に通うことになったクラスメートY君のアパートで2週間を過ごし、鉄道で東海道本線を西へ(富士山は視えたのかな?)そして岐阜から高山本線で高山、白川郷で各一泊、富山を通過して北陸本線で金沢で下車、その後、敦賀から米原経由だったか、京都には興味なかったので降りずに通過し、姫路で城を見物して500円の木賃宿で一泊した。さらに山陽本線で広島に入り原爆ドームに行き、当時の国鉄広島で野球を続けるために就職したクラスメートN君(キャッチャーとして、ドラフトでプロ球団に指名されていたのだが、夢より堅実な生き方を選んだのだろう)の寮に泊めてもらい、再び山陽本線で九州に入り小倉から日豊本線で生まれ故郷の宮崎に寄り、4人(K君、M君、Iさん、Mさん)の幼馴染みとその家族に再会して(泊まったかどうか記憶がない)、再び日豊本線で鹿児島に出て、船で沖縄に戻るという1人旅をした。(情報も今ほどない時代、鉄道のない沖縄からどのようにルートや宿を選んで旅をしたのか、今となっては記憶がない(笑))

 

 登場したみんなが、あの時は二十歳で今は還暦なんだな~(笑)

 

その後、憧れの大学はあったものの、強烈な思いのない私はさらにもう一浪しても受からず、姉の薦める専門学校に進学したのである。そこが、何と!京都!つまり、二十歳になった私の原点の街になったのである。そして、あれから40年の月日が流れ、あの本をテーマにした番組を今年二十歳になる息子と一緒に観るとは・・・

 

あの高3の時に読んだ『二十歳の原点』は京都へのいざないの序章だったのだろうか?  

 

亡き両親には苦労掛け続け、お詫びのしようがないが、人生はホンマに不思議だな・・・

 

 

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2017年

1月

15日

春の息吹?

この冬一番の寒波の日本列島である。

 

京都南部で比較的温暖な宇治でも積雪5㎝はあっただろうか・・・ 

 

私の記憶の中に鮮明に残る初雪は、幼い頃を過ごした宮崎県国富町での体験。たしか5~6歳ごろかな?(もう55年もまえか~)ここも温暖な土地なので、1~2㎝くらいは薄っすらと積もっていただろうか?はしゃいで完成したのは小さな泥混じりの雪だるまだったな~~~ 

 

さて、今日は大雪のなか京都市内で行われている全国女子駅伝の前半をテレビ観戦していたが、日中は晴れ雪もだいぶ融けたようなので、地元のウォーキングコースにある通称『大吉山』を登ってみた。

 

 

道すがら見付けた花は(ん?タンポポ?いや、葉っぱの形が違うよな~)咲きかけの途中で急激な寒さに咲くのを躊躇してしまったのか?

 

温暖な今シーズンは今まで営業できないスキー場も有ったらしい。南極では千葉県に相当する半島に亀裂ができ、切り離れ漂流する恐れもあり、融けるとさらに海面が上昇するとの報道もあった。

 

アメリカの次期大統領は地球温暖化対策には消極的らしいが、在任中の自身の成果重視よりも、次世代の子供たちへの良い地球環境を創る事を目指して欲しいものだな・・・

 

 

さわらびの道「早蕨」まさに春の息吹の道。気軽に登れる大吉山なのに木々は樹氷に見えなくもない(笑)展望台から見える「平等院」の屋根は雪が積もらない構造かな?誰が作ったかベンチに鎮座する「雪だるま」宇治市内を眺めているの?残雪と植物と木造家屋の見事な調和!!

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2017年

1月

05日

明けましておめでとうございます

元旦の朝、恒例の宇治橋から拝む初日の出は、直前に雲が掛りご覧の様子。でも、真実はたしかに雲の向こう側には暖かな太陽がある。それを信じることは、人生にも似ているな・・・

今朝は5日、今日も生憎の曇り空、早朝の世界遺産宇治上神社に行ってみた。三箇日も終わり人影もない参道は神々しかった。皆さんが幸せでありますように・・・

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2016年

12月

30日

ホームにて

 故郷へ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと

 

  優しい 優しい駅長が 街なかに叫ぶ

 

   振り向けば 空色の汽車は いまドアが閉まりかけて

 

  灯りともる窓の中では 帰り人が笑う

 

 走り出せば 間に合うだろう 飾り荷物を振り捨てて

 

街に街に挨拶を 振り向けば ドアは閉まる

 

     

     ♪ホームにて  詞、曲、歌 中島みゆき  1977年 1番の歌詞

 

 

 

先日、電車好きの息子を誘って行った京都祇園にある、ジオラマ・レストラン&居酒屋『デゴイチ』でのワンショット 

 

 ちょうど、京都に出て来たときによく聴いた中島みゆきの作品の中のひとつである。40年前のこと、やっぱり親、きょうだい、友人から離れて暮らす身にはじ~んときたのであろうな・・・  中島みゆきは学校の寮仲間からカセットテープを聴かされ知ったのであるが、さっそく歌本を買い、ギターを弾きながら最も歌った曲が『ホームにて』である。 

 

【今年の総括】 

 

親友が逝ってしまった・・・(私の歌う ♪ホームにて も気に入ってくれていた)

 

そして、還暦になった・・・

 

人生は、思うほど長くはない・・・

 

皆さん! つべこべ言っている暇があったら、逢いたい人には会いに行って下さいねぇ~ 

 

良いお年を!!!                          

 

  

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2016年

12月

28日

御縁

 前回書いたシニアの歌教室の忘年会の最中に、ひとつの出会いがあった。

 

『海の声』での三線の伴奏を担当したせいだろう、宴も終盤、一人の女性が近寄り話しかけてきた。「沖縄の方ですか?」「はい、生まれは宮崎ですが両親が沖縄なもので、9歳になるときに引っ越して、その後十年ほど住んでいました・・・」「私は京都沖縄県人会の者で、来年は京都で沖縄県人会の全国大会があるので是非参加しませんか?」

 

だいたいこんな会話だったかな・・・

 

京都に出てきて40年、県人会には無縁であった。よく言われていることのようだが、沖縄県出身の人は県外の学校で学んでもすぐ地元に帰るとか、たとえ職についても県人だけで固まってしまうとか・・・ 

 

宮崎で生まれ幼少を過ごし、沖縄の都市部(浦添、那覇)で育った若い私の目には、そんな光景が傷のなめ合いをしているようにも映った。しかし、実は皆が損得なしで助け合いをしているのだと、年齢を重ねるごとに気付いていった。そのことを沖縄方言で『ゆいまーる』と言う。そしてネットで知ったが、それは日本全国の農村部で昔から行われていた相互扶助制度の『結(ゆい)』と共通しているということだ。(を順番に回すゆいまーる)らしい。

 

歴史を振り返ると、琉球から沖縄県となり、明治初期より資源や産業の乏しさから、世界各地に多くの方々が移民をしているのである。(先の大戦後はアメリカ軍の基地建設のために、土地を奪われた方々の移民も多かったようだ)南米、北米、ハワイ、アジア各地etc・・・ たぶん、全国どの都道府県の人よりも多いのではないだろうか?その証として、1990年からは数年に一度、世界のウチナーンチュ大会が沖縄で盛大に開催(今年は第6回)され、海外から沢山の沖縄に縁のある方々が参加しているのからも窺える。

 

それは、琉球王国時代からの伝統なのだろう、資源や産業の乏しさから海を渡り、アジア各地の国と仲良く交易しながら、産業、文化、芸能を取り入れ、独自のチャンプルー(沖縄流にブレンドした)文化で小国を維持させたことが、今日に受け継つがれているような気がする。

 

ということで、来年は世界に比べると狭すぎるが(笑)日本国内で活躍されている県人の方々との『御縁』が始まり、新たな学びがあるのかも知れない・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

12月

19日

ご褒美

 前回は『職人』に対しての憧れを書いたが、物事は何事も『継続』していると、あるとき思わぬ形で天から?ご褒美をもらう事がある。

 

音楽療法研究会で知り合ったIさんが主宰するシニア向けの歌教室が、毎夏ライブをしていて、私はここ数年マイク出しなど補助スタッフとして参加している。昨夜はその教室の忘年会が行われ、奏者として、またゲスト?として参加してきた。

 

様々な人生を乗り越えてきた二十数名の生徒さんが、思い思いに歌って楽しみ感動や笑いを誘っていた。私が奏者として参加したのは、今年auのCMで流行したBEGINの曲で桐谷健太でブレイクした『海の声』に三線で参加したのと、ノーベル賞で時の人となった、ボブ・ディランの『風に吹かれて』でギター参加をした。

 

ゲスト?としては4曲の洋曲をバンドの演奏をバックに心地よく歌わせて頂いた。

 

1、太陽は燃えている      エンゲルベルト・フンパーディンク

2、ラスト・ワルツ       エンゲルベルト・フンパーディンク

                      3、好きにならずにいられない  エルビス・プレスリー

                      4、マイ・ウェイ        フランク・シナトラ (尾崎紀世彦 版)

 

なんと!超世界的シンガーの曲を、よくも4曲も歌わせてもらえたものだと今さらながら思うが、中学生の時に耳にし、その歌声ルックスに感動して夢中になった。そして高校で出逢った(今年3月に逝った)親友と機会あるごとにギターで歌い合っていた曲目である。

 

前回、私には『職人』といえるような秀でた技術はないと感じていたが、下手でも45年もの間『継続』して楽しんでいるものがあると、思わぬ形で『天がご褒美をくれる』ものだなと自分なりにこじつけている(笑) そして感謝!

 

 そして、12月は逝った親友の誕生月である。もしかすると、「俺の生誕60周年記念に、お前の歌声を捧げてくれ!」と天から仕組んだのかも知れないな・・・

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2016年

12月

10日

憧れ

 今年も、だいぶ押し迫ってきたな・・・

 

この頃、何故か『職人』という言葉に憧れる。

 

それは、還暦を迎えた今年、普通に会社勤めをしていれば、定年(65歳に伸びてきてもいるが)という年齢である。義務教育を終え色々な進路のパターンがあるにせよ、多くの人が35~45年を勤め上げたことになる。

 

ひと昔まえなら、年功序列で勤め上げたあとに、送別会があり、花束をもらい、家族に「長年御苦労さまでした」と温かく送られ迎え入れられるのが普通のサラリーマンの人生だったのであろう。私も若くからサラリーマン人生を歩んでいたら、辛うじてそのホームドラマみたいなシーンを味わえたかも知れないな・・・

 

ところが、私の人生の選択は育ちが甘いのか、常に今が楽しいこと、何となく引き付けられること、義理人情などの方向に舵を切ってきたような気がする。

 

もうすぐ赤穂浪士の討ち入りの日だが、コーヒー専門店で修行中に出逢った妻に「まるで忠臣蔵みたい」と言われたのが、未だに耳の奥にこびり付いている(笑)

 

そんな私が、この60年の人生の中で慕ってきた師匠、両親、親友を年を追うごとに失ってきて感じることは、その『楽しいこと、引き付けられること、義理人情』で歩んできて得たもの(漠然としているな)を、残りの健康寿命を頂いている間に、次世代への橋渡しをしていかなければいけないな~ と思うのである。

 

とは言え、この道一筋の『職人』なら、これという目に見える橋渡しの形があるのだろうが・・・

 

こんな、私にあるものは何だろう・・・ 

 

いや、もう思慮してる時間はないよ!「そのままの自分を表現しながら終身現役を全うしよう」と思う年の瀬である・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

11月

17日

20日は宇治市が面白い! ♪♪♪

食欲の秋! 芸術の秋! そして 音楽の秋♪

 

宇治市で私等の出演するバンド(午前中)のライブ(左側)と 私が所属している音楽療法研究会メンバーによるライブ(右側)が開催されます。賑やかな左ライブと、しっとり落ち着いた右ライブを掛け持ちで鑑賞してみては如何でしょう・・・

 

どちらもJR奈良線の沿線で左は宇治駅~右は六地蔵駅の所要時間は、快速なら5分ほど普通でも10分ほどで移動可能です。(どちらの会場も見た目で駅から10分ほどで歩けるかな?)

 

この日は宇治市が面白い!(笑)

 

 

 

 

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2016年

10月

31日

昨日はこんなライブをしましたよ~♪

 

 春と秋に行われる FOREVER・FOLKピクニック 今回は震災追悼ライブということで、午後1時半から始まり終演が夜の7時過ぎでした。日が落ちると吹きっさらしの運動公園なので、秋の半ばとはいえ寒さで震え上がりました。

 

いつもの我々おっちゃんバンドに加え、追悼ライブに賛同した若いバンドも2組が出演し、高校生の書道パフォーマンスやグルメマラソンもあったので、なかなか面白い一日でした。

 

日が落ち、灯篭に明かりが付き、ライブ終了後には、中央の大きなバルーンを囲んで『花は咲く』の合唱が行われ、黙とうで締め括られました。

 

《我がバンドの曲目♪》

 

♪どうにかなるさ、♪どうしてこんなに悲しいんだろう、♪たばこ屋の娘、♪銀座カンカン娘、♪明日に架ける橋、♪イージューライダー、♪ルパン3世エンディングテーマ、♪出発の歌 

 

百人の演者で行う100人ギターは今回も目標人数に達しませんでした~

 

中、高、大学生などの若い子たちにまで、すそ野を広げないと100人ギターは無理かな・・・

 

今年の FOREVER・FOLK in 宇治 の開催は11月20日(日)10時からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

10月

19日

進む?それともリタイア?

 10月始め、リビングでパソコンの前に座っていたときに、大学生の息子は横のテレビでバラエティー番組を観ていた。暫くすると詰まらなくなったのか、スーッと席を立ち自室に戻っていった。パソコン作業をしていた私は気が散るので、落ち着いた番組はないかとチャンネルをNHKにすると、何か長距離競技のスタートの瞬間であった。

 

何となく気になり視線を向け続けていると、参加選手の年齢は高そうだし、一度も観たこともないマイナーなスポーツのようだった。

 

後で新聞で確認すると、その番組は「NHKスペシャル『神の領域を走る』パタゴニア極限レース 世界一過酷な141㎞ 47歳日本人が大激走!」とあった。

 

「パタゴニア??聴き覚えのある地名だな~ スペイン語?? ははぁ~開催国はスペインか~」と、番組を観ている最中は判ったふりをしていたが(笑)、あとでWikipediaで調べると『パタゴニア(Patagonia スペイン語発音: [pataˈɣoni̯a])は南アメリカ大陸の南緯40度 付近を流れるコロラド川以南の地域の総称。アルゼンチンとチリの両国に跨る。』と書いてあった。(知ったかぶりは恥ずかしい(笑))

 

141㎞!!! 高校時代のマラソン大会で10㎞を走っただけで音を上げていた私には考えられない距離だし、平たんな道だけではない、道なき山道や川、岩山を登りきると-19℃の極寒の岩の雪道を走る。中継所には水、食料、休憩室は用意されているものの、多くの選手がリタイアしていく。極寒の雪道で女性選手たちは低体温症にかかり相次いでリタイア、この場所を乗り切ると『神の領域』に入るという。トップ選手を追い2番でゴールした47歳の日本人選手は、この領域に入った辺りから「斜めうしろから、家族か友人が併走してくれる感覚になった」と言っていたが、やはり『神の領域』なのだな。

 

それよりも、ふらふらになりながらゴールして、感極まり奇声を上げた参加者最高齢の59歳でチリから参加した(弁護士だったかな?)男性に、私は自分自身を重ねジーンとして涙ぐんだ。番組の取材当時は私も59歳だろうから、きっと同期だろう。

 

レースも人生も「進む?リタイア?」と自分自身に問いかけながら、前へ前へ・・・

 

 

 

 

 

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2016年

10月

07日

ありがとうございます(^v^)

 還暦の年、本日めでたく六十歳を迎えることが出来ました。

 

振り返ると、産まれて此の方、一度も私だけの力で生きてきた覚えがありません。

 

両親、きょうだい、親族、家族、友人、職場の方々、通りすがりの方々、そして、あなた!  心から感謝いたします。

 

今日、新たに生まれ変わりましたので、残りの人生を今まで得たことでお返しして参ります。

 

宜しくお願い致しますm(__)m

 

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2016年

9月

28日

還暦同窓会

 シルバーウィークに中学時代の同窓会(同期会)があった。あれから45年! 即ち還暦祝いなのだ!!!

 

高校時代の同窓会が、まさかの昨年の秋、しかも2日前に突然の連絡で参加できなかったので、今回は案内が来る前に同級生から早々に連絡を貰い、即決をしていた。

 

しかも、余興の為にギターの用意ができるなら、「15分の時間を貰い演奏させて」と厚かましく、案内の往復はがきに返信をしたのだった。

 

5年前は高校創立50周年記念式典に参加した同じ日の夕方に中学の同窓会があったので、今回はやや余裕の心構えであった。ところが、還暦祝いなのでよく遊んだ仲間や、部活仲間も多く参加してくるだろうと思っての帰省だったが、意に反して親友達の欠席が目立ち少し寂しい会ではあった。

1972年の3月に卒業し4月に高校入学、そして5月15日に沖縄は日本復帰したのだ。

 

それでも、5年前に会えずも45年振りの顔には面影があったり、さすがに声を掛けられても思い出せない顔だったり・・・

 

小学5年から(他から転校してきたので)高校まで一緒だった女子からは「・・・ちゃん」と呼ばれ(笑) 剣道部だった男子には5人も孫がいたり、同窓会は現実とあの頃が一瞬にして入り混じる不思議な空間である。

 

因みに演奏はピアノ(キーボード)があれば、中、高と一緒だったプロのピアニストになった憧れの女子にお願いして『♪太陽は燃えている、♪明日に架ける橋、♪カントリー・ロード』と、あの頃に流行した洋曲をやるつもりだった。しかし、残念ながらピアノの設置ができなく、ソロのギターで『♪カントリー・ロード、♪太陽は燃えている、♪乾杯、♪かりゆしの夜』を演奏した。

 

ま~みんな褒めてくれたけど、久しぶりの再会で歓談に忙しく、「何か唄ってるな~」ぐらいの興味だったけどね・・・(笑)

 

45年前に其々が進路を思い思いに進んで行き、その歩んだ人生がお互い同窓会の場に言葉にも顔や身体にも表現されていたと思う。これから其々が今生において、あとどれだけ生かされ人生経験を積んでいくのだろう?   又の再会を願いつつ・・・

 

 

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2016年

9月

09日

夏休み明け

 幼年期、少年期、思春期、青春期と、夏休み明けというのは、何故かいやなものだった。(未だに、夏の終わりは切なさが込み上げてくる(笑)なぜだろう・・・)

 

でも、部活などで夏の暑い時期を乗り越える経験をすると、いつの間にかそれ以前より大きく体力や技能がアップをしているものだし、勉学でも暑さで効率の上がらない中で課題をやり切ると、何故か秋には能力アップしている。

 

私を例にとれば、遊びにしても夏休みは小学校の低学年時代の宮崎の田舎町で、幼馴染みや兄と野山を駆け回ったり、川で遊んだりして色々な発見や経験をすると、二学期には何故か一回り成長していた気がする。そして、小3の夏休みに引っ越したアメリカ統治下だった沖縄では、浦添や那覇の基地や都会を目の当たりにしながら、田舎にはない刺激で成長していった。

 

人は幾つになっても成長する、この夏の私は何を経験し成長して9月を過ごしているのだろう・・・

 

たしかに、この夏も本を数冊読んだり童話作家の講演に行ったり、写真展に行ったり、音楽療法士や臨床心理士の講演に行ったりして学び成長しているのかも知れない・・・

 

そんな中、図書館で借りた本のなかに『人生下り坂最高! 火野正平+NHKチームこころ旅 ポプラ社』というNHKテレビ番組(妻の録画をたまに観るくらいだが)の裏事情みたいな本を読んだ。そこで、ふと思ったのだが「あ~ 人生60歳が頂上なら、後は得よう!成長しよう!と力を入れんでも、人生を下って行きながら、(下りのほうが景色も良く見えるし)今までに身に付いたものを後世の人たちに伝え、差し上げていけばいいんや~ 多分そうすれば、周りの人から死ぬまで大事に生かされるんじゃなかろうか・・・」と思っているのである(これも我欲かな?)

 

60歳を前にして、人生の答えを発見した訳ではないが(笑)教えて、伝えて、そぎ落としていくことが、人生一番の幸せな時間になり、『徳』を積めるのではないかな・・・

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2016年

8月

18日

日本人はどこから来たのか?

 私は若い頃から、ある大学の海洋学部を受験するほど海への憧れをもっている。(碌に勉強しなかったので叶わなかったのだが(笑))

 

すでに、ひと月が経ってしまったが、写真は『海の日』の朝刊の切り抜きである。その前日のニュースにも取り上げられていたので、記憶にある方々も多いと思う。

 

この記事よりも前に、『日本人はどこから来たのか』( 国立科学博物館人類史研究グループ長 海部陽介 文藝春秋)という本が新聞広告が出ていた。それを目にした瞬間に「これは読まなくちゃ!」という直感が働いたのである。

 

71年目の終戦記念日も終わり、世界情勢を見たときに私にとって一番身近な問題は、やはり出身地である沖縄の米軍事基地なのである。何故なら世界を見れば日米安全保障条約、近隣諸国との摩擦、中東の紛争、核兵器、テロetcなどの問題で、ひとたび有事が起きると、日本にある米軍基地の74%が国土の0.6%の面積しかない沖縄にあることに直結してしまうので、多くの身近な命が再び危険にさらされてしまうからなのだ。

 

現人類(ホモ・サピエンス)の発祥の地がアフリカであることは殆どの人が知っていることであろう。その我々の祖先が約5万年前にアフリカを出て世界中に(あらゆる環境に適応するために容姿や肌の色を変えながら)大移動を始め、そして東を目指した祖先は3万8千年~3万年前に日本に到達したという。そのルートが3つ有り、ひとつは対馬ルートでいちばん早く到達したという、いちばん遅いのは北海道ルートで当時はシベリアと陸続きだったらしい。そして、もうひとつは沖縄ルートがあるのだが、これが海洋航海術の未熟な当時の人類にとっていちばん困難であった。そこで、新聞記事にある航海の検証プロジェクトが結成されたようだ。

 

新聞の画像やニュースの動画を観ると、まるで少年の夏休みの冒険のような笑えるバカげたプロジェクトを学者達が真剣に取り組んでいる姿だが、私は心の底からエールを贈っている!!!

 

種の保存だけでは満足できない人類は、どこの国にも神話などスピリチュアルな伝説があり愛国心を持っていると思う。そして、学問、科学技術、宗教、スポーツなどで他国や他民族に勝ることを目標として文明を発展させてきた。勿論、それが人類の進歩進化に大きく貢献してきたのは間違いない。しかし、それがエスカレートして差別になると争いが起き命を奪う戦争に発展してきたのであろう・・・

 

ならば、数万年前にアフリカの地を出て世界中を旅した人類の子孫はみんな血縁で繋がり優劣などないと、地球規模で捉える事ができれば何かが変わり始める気がするのだが・・・

 

本のタイトルを目にしたときから、アフリカから命を繋ぎながら日本に到達してきた人類を思い描き、わくわくしながら本を読み進めていった。そして、あとがきに著者の思いが私の常日ごろから持ち続けていた思いと共感する文章に到達したのだが、この本を読みたい方々のためにも、その内容をここに抜粋することは控えることにする・・・

 

タイトルだけで、この本に飛び付いたのは、私のルーツが沖縄にあるからだろうし、(宮崎にもあるようだから、一方では対馬ルートからの祖先もあるのだろう)人類発祥の地アフリカから沖縄に行きつくまでの何万年もの命の繋がりの旅を考えるとワクワクするし、これから先の何万年の命の繋がりがどのようになっていくのかと思い描いてもワクワクする。その為にも不毛な戦争を辞めて、破壊の進んでいる地球環境の改善に世界の人々が真剣に取り組んで欲しいものだと、終戦記念日やお盆を迎え、そして送りながら思う日々である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

8月

06日

本日のライブ出演

 

1) 宇治市 フォークソング愛好会 第7回 音タイム(ライブ)

 

宇治市福祉サービス公社 3F

 

スタート PM 1:30~

 

(1) 一般参加 OK! お菓子&ドリンク付き ¥200円

 

 

 

 

 

(2) スマイルサタデー クラフトビール夜市at宇治歴史夜噺

 

~ あをろしき お化け街道~ ライブ

 

宇治橋通りは、14:00~22:00の間、歩行者天国となります。

 

ストリートライブの場所は「茶願寿」(文教大学サテライトキャンパス) の前のウッドデッキのある場所です。

 

ライブスタート PM 5:00頃~9:00頃まで

 

多数の愛好会バンドが参加します。

 

(2) 無料

 

 

 

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2016年

8月

05日

戦後と共に・・・

 永六輔氏、大橋巨泉氏が相次いで逝った。日本の高度経済成長と共にテレビ番組も発展していったが、その人気番組を生みだした放送作家の巨匠たちである。

 

高度経済成長期は1955年頃から1973年頃らしい、1956年(昭和31年)生まれの私は、まさにその真っ只中に多感な時期を過ごしたのだ。上記のお二人は当時の私には憧れの大人の番組を手掛けていた。

 

そして、子供向け番組で印象の深いのは当然アニメの数々だが、他には小学校の間にNHKで放送されていた人形劇『ひょっこりひょうたん島』だった。昭和39年4月から44年3月(小学校2年から6年)までの放送なので、ちょうど宮崎からアメリカ統治下の沖縄に移り住む時期に重なり、この5年間で3つの小学校を転校をしたのからも判るように、家族にとって激動の時期たったのは間違いない。(因みに、当時は沖縄住民向けのテレビ局は2つあったが、アメリカ統治下のせいでNHKはその中の1局がCM付きで暫く放送していた。そして、アメリカ軍人向けの放送局の番組も受信できていた(驚))

 

話を戻すが、ひょこりひょうたん島の脚本を手掛けたひとりが井上ひさし氏(もうひとりは児童文学者の山元護久氏)だったということを、氏の小説を最近読んで、その巻末に掲載された著者自筆の年譜で知った。ひょっこりひょうたん島のテーマソングは50年経った今でもそらで歌えるので、低学年のときは番組が始まるとテレビにかじり付いて観ていたと思う。

 

その井上ひさし氏の小説とは、『モッキンポット師の後始末』である。モッキンポット???そう!前々回に取り上げた、高校生の時に初めて行った喫茶店の名前である。あの時、なぜ店名に疑問を持ち、マスターにその謂れを聞かなかったのかと思う。あのブログを書いたあとに、モッキンポットが気になりパソコンで検索してみると、モッキンポットの意味は出てこなかったが、『モッキンポット師の後始末』という小説が出てきたので、そこから拝借した店名だろうと推測できた。数日後、地元の図書館で興味のある本を数冊引き抜きながら、文庫本のコーナーに行くと、何か訴え掛けてくる古ぼけた背表紙のタイトルが見えてきた。それは何と『モッキンポット師の後始末』ではないか!(何事も懸命に求めているときは見付からなくて、潜在意識に入り込んだ重要なものが、特にに探していなくても、ふと与えられることってある!)当然、他の数冊と共に借りて帰り読みだすと、夢中になってしまったのだった・・・

 

それは、井上ひさし氏の昭和46年(1971年)に書いた初めての小説で、裏表紙には「食うために突飛なアイデアをひねり出しては珍バイトを始めるが、必ず一騒動起こすカトリック学生寮の”不良”学生三人組。いつもその尻ぬぐいをさせられ、苦りきる指導神父モッキンポット師  お人よし神父と悪ジエ学生の行状を軽快に描く笑いとユーモア溢れる快作。」と紹介されているように戦後の貧しい時代を氏の体験をベースに創作された作品だ。あの喫茶店のマスターはいつ何処でどんな状況でこの作品を読んでファンになったのであろうと思い描きながら読み進めて行くと、アッという間に読み終えてしまった。もし、この作品にあの頃に出逢っていたら、私は何が何でも東京を目指していたかも知れないな~ 人生は不思議だな~

 

6年前に75歳で亡くなった井上ひさし氏は永六輔氏や大橋巨泉氏と同世代である。これらの方々に限らず、戦後の貧しい時代に思春期、青春期を生きた方々の生きる力、そして想像力や創造力は凄い・・・!!! 

 

『モッキンポット師の後始末』の「~あとがきにかえて 私のヒーローモッキンポット師」の最後にこんなことが書いてある。「疲れた日本人の歴史的危機をいったい誰が救済するというのか、それは皆目わからないが、そいつはたぶん独裁者としてあらわれるはずだ。その英雄的独裁者のあらわれる時をすこしでも先へのばすためにも、私はドジで間抜けな主人公を次から次へと作り出さなくてはならない。それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわらげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作者冥利につきる。」昭和47年10月8日付の読売新聞掲載とある。(因みに モッキンポット=間抜けなお人よし と解った(笑))

 

44年前だが、今の日本のことを言っているようでドキッ!!!とする・・・

 

そして昭和40年、私たち家族にとってアメリカ統治下の両親のふるさと沖縄への移住は、ひょっこりひょうたん島のテーマソングのような旅立ちだったかも知れないな~♪

                 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

7月

25日

栄光のラーメン店主

 だいたい男というものは、過去を美化してそれに浸るアホな生き物のようだ(笑)

 

その団塊の世代と思われる男性客は、老齢の店主に両手を差し出した。店主もそれに応え、両手でその客の手を握り締めた。その客が「こんな頭になりました」と薄く白髪になった頭に手をあてると、店主は被っていたバンダナを外し後退した白髪頭をさらけ出して「来年八十になります。腰も痛いですが、八十までは頑張ります」と小柄な身体で歴史の刻まれた笑顔を向けていた・・・

 

先日、ある講演会(この話題は別の機会に)の帰りに、懐かしいラーメン屋に入った。もう五十年以上の歴史がある老舗と言ってよい店だが、あっさりした普通の醤油ベースのスープで特別に美味というわけではない。ラーメンファンや外国観光客が行列してるわけでもないので、それが証拠だろう。私が昔に通ったのはホントに数えるほどで、1977年からの学生時代、修行時代の10年ほどの間だったと思うが、店主の顔も特に記憶には残っていなかった。

 

その日は土曜日の昼だったが、猛暑の影響か25ほどの座席のうちカウンターに8人ほどの客であった。この辺りは西日本の大学の雄である京都大学の施設が数多くあり、道向かいには大学病院、少し離れた敷地には、ノーベル賞受賞者である彼の山中教授のいるips細胞研究所(講演会場に行く道すがら、たまたま見付けたのだが(笑))もある知識人の街である。

 

のれんを潜り古ぼけてしまった店内に入り、カウンター客の1人に加わりラーメン並と麦飯小を注文した。直後に先の男性客が五つほど離れた席に座り同じメニューを注文した。それまでラーメン作りの一連の作業をしていた店主は腰が痛いのか、娘と思しき女性にバトンタッチして補助作業に回った。なみなみと入ったラーメンとスープ、そして小とは言えてんこ盛りの麦飯を「こんなんだったかな~」と思いつつ箸を進めていると、その男性は出された麦飯に「これは麦飯ですか?」と質問した。娘と思しき女性「はい」と優しくいなしていた。暫くして私より早く食べ終わった男性がレジに立つと、娘と思しき女性は「この頃の学生は麦飯を嫌がるので麦を減らしているのです」と打ち明けた。そこへ店主が加わり序文の光景が展開されたのである。

 

私の父は八十歳まで働いた。そして私はその父の年齢を超えるまで働くのが目標であり、あのラーメン店主の姿が八十歳まで働いた父の姿にかぶったのだ。「このドラ息子をいつまでも応援してくれていたな~ 私の八十歳の姿はどんなんだろう・・・」

 

あのラーメン店主は来年八十歳には栄光のゴールのテープを切るのかな? カウンターの上にお冷のサーバーが備え付けられていて、その横に陣取りお客が来る度にお冷を入れ、ノートに『正』の字を書きこむ(覗きこんですんません)老女がいた。店主や娘、そして男性の会話に加わり「まだまだ稼いでもらわんと!」と笑いながら言っていた・・・ 

 

 おぅ! 女はいくつになっても現実主義! 絶妙のバランスの家族経営だな~(笑)

 

懐かしい店で男と女の性の違いを見せつけられた私は猛暑の中、夢と現実の狭間を彷徨いながら帰路に就いたのだった・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

7月

17日

大人への入り口~珈琲と小説~

 文庫本が出るたびに購入した五木寛之の小説『親鸞』(上下三部作6巻)を読み終えた。

 

小説を読み始めたのは高校3年生と遅い、運動部に入っている男子にとっては、引退してから色々なこととの出逢いが始まる。

 

同じクラスにいたT君はバイク通学をしていた。彼は当時から眼鏡を掛けて賢そうな帰宅組、部活を引退するまで彼の私生活は見えなかったのだが、他のクラスが羨むほどほぼ全員が仲の良いクラスだったので、受験生とはいえ緩やかな時代だったし、部活を引退した開放感のなかで仲間からの刺激が楽しくて、おのずと彼との親交も深めていった。当時は那覇港近くに住んでいた私であったが、ある日(学生服のままだったか、私服だったか)T君の自宅に近い当時いちばんの繁華街である国際通りの牧志にある、モッキンポットというテーブル、カウンター合わせて15席くらいの喫茶店に仲間数人と行った。私にとっては初めての喫茶店だったが、T君はここの常連で、マスターといえば当時かなり大人に感じたが、いま思えば二十代後半から三十代の始め位だったのではないだろうか、ロングヘヤーの髭面(記憶が正しければ)で愛想よくサイフォンで珈琲を淹れていた。コーヒーといえばインスタントしか知らない私にとって、ここで覚えた珈琲と煙草(時効ということで(笑))は大人への入り口だったのであろう・・・

 

その後、しばらくして仲間とT君の自宅に遊びにいった。いま私の実家のある牧志の家から歩いて5分ほどの所にある赤瓦の家屋で、親父さんは鉄工所を営んでいた。彼の部屋は三畳ほどで、たしか畳1枚が乗っけられた(手作り?)ベッドが備え付けてあり、流行り音楽主体の私の部屋と違い、机や壁には自作の美術品や小説が並んでいて大人の空気が漂っていた気がする。この部屋はお互い二浪して彼が東京、私が京都に進学するまでお世話になったのだが、二人だけや仲間と徹夜で過ごした日々が懐かしく蘇る。小説好きの彼が星新一、北杜夫、そして五木寛之の『青春の門』を貸してくれて読んだのが小説への入り口になったのだった・・・

 

部活仲間、音楽仲間、帰宅組、それぞれの個性から刺激を受けた高校時代はほんとに眩しい。先日、高校野球全国大会地方予選で出身校がベスト4まで進出して、甲子園に出場するかもと胸をときめかせていた。残念ながら敗退したが、還暦になる年に青春時代が蘇り、また新たな人生の意欲を掻き立てる出来事になったのには感謝だ。

 

3月には音楽を通して親交の深かった同級生が逝ったし、卒業後すぐに交通事故や病気で逝った同級生もいた。これからは、ますます身近な人たちとのお別れ(私が先かも知れないが(笑))を経験していかねばならない。今なお偉大な僧侶の一人として語り継がれている親鸞だが、小説の中では多くの事に苦悩し、最期はただ枯れるような死で表現されていた・・・

 

 

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2016年

7月

13日

元気です!

べつに夏バテしてるわけではないのだが、なかなかブログを更新できてない。

 

知人の居酒屋でライブもしたし、毎年恒例のシニアのライブの手伝いもしたし、まずまず充実している。

 

今はこれからの人生展開を描いているところと言うべきか・・・

 

そんなこんなで、もうすぐ祇園祭の山鉾巡行だな~

梅雨明けも近い!

 

九州の皆さんは災害続きで大変だけど、どうぞ乗り切って下さい!

 

かならず花は咲く! 人生は信じて前に進むしかないね。

 

 

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2016年

6月

22日

若者の叫び

 美しい海岸線の写真は、2007年9月5日付けで、今年3月に逝った友人がまだ元気な時に写メールで携帯に送ってきたものを取り込んだものだ。沖縄本島の中部から北部にかけての西海岸の何処かで撮影したものだろう・・・

 

明日、沖縄は慰霊の日だ。これについては、過去に何度か取り上げているのでここで詳細は書かないが、先日、沖縄では県民大会が開催された。翌朝、購読している全国紙のトップにその記事が掲載され、その関連記事の中で若者が壇上で発表した内容を読み、インターネットで検索して、その様子の動画を観たのだが、その言葉が胸に突き刺さった・・・

 

京都での生活も40年近くになった。時々、帰省して親、きょうだい、友人達と会い楽しい日々を送ってはいたのだが、私はこの歳月に沖縄のために何をしてきたのだろう・・・

 

前回紹介した『沖縄現代史』を読み終えて感じたことは、「知らないこと、目を向けなかったことが多すぎた!」ということだ。戦後71年、生まれて60年近くの出来事であるが、アメリカと日本の政府相手に多くの方々が基地と経済の狭間で懸命に闘っていたのだ・・・

 

これからの沖縄、日本、世界各国の若者たち、そして家庭の子供たちに、我々の世代は何を残していけるのだろう・・・

 

戦争、環境破壊、貧困などの困難な問題を先送りしていたら大変なことになる、素晴らしく尊い命を繋げていかなければ・・・

 

 

童神(わらびがみ)

 

天(てぃん)からの恵み 受きてぃ此ぬ世界(しけ)に

 

生まりたる産子(なしぐわ) 我身(わみ)ぬむい育てぃ

 

 

 童神

 

天からの恵み 受けてこの地球に

 

産まれたる我が子 私こそがお守りして育てる

 

 

上記の詩は、先日の沖縄県民大会のオープニングで、古謝美佐子氏が三線を弾きながら唄っていた『童神』の歌詞の入り部分である。

 

 

 

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2016年

6月

01日

必要なものは与えられる

 この所のブログは堅くて重たいとは思うのだが・・・

 

でも最近、痛ましい事件のあった沖縄のことを思うと、つい思考がその方向を向いてしまうのだ。

 

前回の『あれから44年か~』で書いた部分で訂正しなければならない箇所がある。「・・・生まれた時からアメリカ統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は・・・」と書いたのだが、我々が生まれた1956年~1957年は沖縄では、まだドルではなくB円(1945年~1958年9月までアメリカ軍発行の軍票)を通貨として使用していたのだ。(ドルはその後、復帰までの通貨である。余談だが絶対的権力者の高等弁務官制は、ドルが通貨になる前の年の1957年7月から6代に及ぶアメリカ陸軍中将が着任して、日本復帰の1972年5月14日まで権限を奮っていた。)

 

5月も後半、図書館で何気なく本棚をみていると、まだ表紙の新しい新書に目が止まった。タイトルは《沖縄現代史》櫻澤誠 著 中公新書 2015年10月初版でサブタイトルに〈米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで〉と書かれている。著者は立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員(専門は日本近代史・沖縄現代史)で、1978年生まれで、まだお若い。

 

私は9歳から20歳までのほぼ10年間の中途半端な時期しか沖縄で過ごしてないのに、知ったかぶりをして前回のブログを書いてしまったことは恥ずかしいことだ。そして、事実を知る為には『人は必要な時に必要な出来事に遭遇する』ということを、この本との出逢で実感している・・・ 

 

あんな小さな島々なのに、沖縄の現代史は驚くほど内容が濃く、まだ半分しか(やっと日本復帰した頃)読み進められていない。それにしても、多くの志のある方々が日米の間で闘ってきたのだな~ 心して読みながら事実を知っていかねば・・・

 

とは言え、次は沖縄の空と海のように明るく楽しいことを書きたいな~~~

 

 

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2016年

5月

16日

あれから44年か~

 44年前の5月15日、高校1年生の私は多分いつものように授業や部活(バレーボール)に励んでいたと思う。

 

その日は沖縄が日本復帰を果たした日である。

 

その前年の中学3年生の時は、部活のバレーボール部が全島大会で準優勝して、優勝校と共に九州大会に出場を遂げた。まだ日本復帰前の事で、パスポート持参での船と汽車を乗り継いでの2日掛りの遠征だったと記憶している。しかも、私が生まれ小学校3年生の1学期までを過ごした宮崎県が会場で、宮崎市内の体育館には隣町の生まれ故郷である国富町から、幼馴染み達が駆けつけてくれたのだが、他県代表との実力差が大きく1回戦で儚く散った。(しかも、レギュラーでなかった私はピンチサーバーでの一瞬の出場で、応援に駆けつけてくれた幼馴染みに今でも申し訳ない・・・(笑))

 

九州は先の戦争でアメリカ軍が沖縄上陸をする前の昭和19年に、家族(幼い長姉と生まれて間もない次姉を伴って)、親戚が疎開をし、お世話になった場所だ。鹿児島、熊本、大分(ここで長姉は病死)を転々として戦後に宮崎に落ち着き、次々姉、兄、そして私が昭和31年に生まれた。

 

日本復帰44年、戦後71年、それでも沖縄の米軍基地はなかなか縮小しないし、辺野古新基地の問題も複雑になり、本土からの「差別」と捉える人々も多い・・・

 

掲載した45年前の写真は、大会が終わり九州旅行をした時のもので、ひと月前の大地震で大きな被害を受けた熊本城に向かう部活仲間の姿や、阿蘇山の火口に立つ私や別府温泉も写っている。旅の間、宮崎うまれの私は本土の文化や通貨の円に何の違和感もなく触れていたが、日本全国の中学生と同じ教科書で学んでいたとはいえ、生まれた時からアメリカの統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は、その時に何を感じていたのであろうかと、45年経った今頃になって思うのである・・・

 

そんな沖縄に重なるのではないかと思う事として、熊本や大分、東北、阪神淡路の大震災に遭われた方々、古くは広島、長崎の原爆に遭われた方々からすると、戦後生まれの私達は同じ日本の中で安穏と暮らせる日々を続けている。そんな中、思いもよらぬ大震災に突如として襲われた被災地では、それこそ「差別」を感じておられる方々も多いのではないか・・・

 

以前、何かの機会に「差別」とは相手を知らないところから起きると書いた記憶がある。沖縄、熊本、東北、そして原発のある土地や世界中の混乱地にせよ、現在は戦争や紛争や地震そして汚染などの危険性が少ない限り、その土地を訪れて歴史や文化そして暮らしぶりに触れ、地元の人々と腹を割った話をしなければならないのであろうと思う。しかし、それができない環境の人々が大半であるから、私は、溢れる情報の中から人として真実を見抜く力を養い、眼を背けず「差別」を無くす勇気を少しでも持ち、そして一歩でも行動することから始めなければと思う、昨日の日本復帰記念日である・・・

 

 

 

 

 

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2016年

5月

04日

五月晴れ

 目覚めると、空は雲ひとつなく真っ青!!雨上がりの五月の早朝は清々しい!

 

一ヶ月間もブログから遠ざかっていた。掲載するような出来事が無かったわけではなく、有りすぎて日々がアッ!という間に過ぎ去ってしまったのだ。

 

熊本を中心とした九州の震災、亡き友人に自作の歌を捧げた沖縄への帰省、イベントの打ち合わせとその練習、知人のライブ、そして還暦からの人生を見据えた誘いを受け、37年来の友人の住む浜松へ25年振りに行って来た。

 

生来のんきな性格の身には、少々ハードなスケジュールをこなしたことで、体調を落とし気味だったが、雨上がりの今朝の快晴は気分を一新させてくれている。

 

 明日は別の友人の誘いを受けて《おとなのための絵本劇場》の手伝いをするのだが、その中で自作の曲も披露させてもらう。   

 

             雑貨店おやつ http://www.o-ya-tsu.com/

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2016年

4月

03日

今年も咲きました

青空にならず花が映えないが、今年も咲いた桜・・・

 

夏、秋、冬を乗り越え、厳しかった季節や環境をいっさい愚痴らない・・・

 

そして、春がくれば必ずその美しさを人々に無償で観せは癒す・・・

 

しばらくすれば、その姿を潔く落とし青葉に、紅葉に、そして枯れ葉に・・・

 

私はそんな人生を、少しでも過ごせてきただろうかな・・・

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2016年

3月

20日

無知の愚かさ

 

 

 

1月7日に紹介し、現在京都シネマで上映されてる『うりずんの雨』を観てきた。

 

とても感想や解説はできそうにない・・・

 

9歳から20歳になるまで過ごし、それなりに米軍基地にも接してきたつもりだった沖縄だが、やはり、知らなかったことが多すぎる。

 

恥ずかしい・・・

 

 

全国に上映会が広がっているようなので、今伝えられることは、可能な限り皆さんに観て頂ければと思うことだけである。

 

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2016年

3月

13日

物語

一昨日に東日本大震災から、まる5年経った。

 

あの時、私は大阪南部への出張帰りの電車の中、そのせいで揺れを感じなかったが、家族や職場の人々が揺れを感じるほど、遠く離れた関西まで地震を実感したとは、その凄まじさが・・・

 

その後、報道による悲惨な光景に気分が落ち込む日々が続いた。あるとき歌を作らなければと書いた詩があるのだが、結局は最近まで曲をつけられずにいた。それが五年越しにやっと曲を付けて、ひとり歌ってみてはいる。しかし、その悲惨な体験をされた方々の心理を思うと、「人前で歌うことが許されるのか?」と思ってしまう。

 

しかし、今朝、ふと思った。「物語は提供する側と受け取る側の感じ方が違って当たり前」と・・・

 

ひとり一人に与えられた人生は、それぞれ異なるのだ。歌にしても小説etcにしても、受け手は登場人物の人生や光景に共感したり拒否しながら、自分のフィルターを通して、自らの人生に重ねるものであって、それを「この作品はこのように感じとって」なんてのは傲慢なのだ。

 

あらゆる芸術にしてもあらゆる技術にしても、一級品は自己満足から切り離し社会に提供したときに、それが一人歩きを始め、人々の人生を豊かにする。津波や原発被害に遭われた方々の思いを胸に、例えひとりの人生でも豊かにできるお手伝いができればと思う六年目の春・・・

 

齢六十も間近、「今さら~」と言う心の声と、「やろう!」と言う心の声が交互に聴こえる・・・

 

 

 

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2016年

3月

07日

日が沈む

 今日は親友の初七日・・・

 

ほぼ10年に亘る闘病の末、3月1日の日付が変わろうとする深夜この世を去った。それを知ったのは告別式当日の朝、そして帰省(会葬)は叶わなかった・・・ 

 

彼との出会いは高校1年の同じクラス、何が切っ掛けだったか思い出せないが、お互いにギターを弾くことを知り、それからは其々の部活(彼は放送部、私はバレーボール部)の合間を縫ってギター片手に洋曲中心の歌に興じた。

 

偶然にも彼の母親は私が中学生の時の音楽の恩師で、当然なのだろうが、彼の音楽力には遠く及ばなかった。彼はギターに加え、ドラムやピアノもこなし、他の高校に進学した中学時代の同級生とロックバンドを組んでいた。

 

絶対音感の彼だが、何故か私の歌声には惚れ込んでくれたのだった。この45年近くの間、再会の度にいつも褒めてくれた。高校時代は常に私に歌う機会を与えてくれ、教室での練習、彼のロックバンド、音楽室でプロのピアニストになった子との共演、放送室に私を招き昼休みでの校内放送、文化祭でのライブ、キャンプファイヤーetc・・・と人前で歌う楽しさを提供してくれた。

宇治川の向こうの山に沈む夕日、の方角には沖縄が・・・

できることなら、海に沈む夕日を眺めたかったのだが・・・ 

でも、あいつみたいに大きく鮮やかで美しかった~

 

お互い福岡と京都に進学してからも暫くは交流していたが、その後20年ほど疎遠の期間を経て、私が妻の実家のある宇治市に住むようになり再会を果たし、帰省の度に一緒に歌う機会を作ってくれた。ほとんどがカラオケになったが、まだ体調の良かった8年ほど前に、彼のドラムとプロになったピアニストの子と私のギターで、彼が中学校時代組んでいたロックバンドメンバーの一人が営む、ライブハウスで演奏に興じた。その時は「高校の同窓会で三人で演奏をしよう!」と誓っていたのだが、晩年は楽器に触れることさえできなくなり、最近は私の下手なギター演奏で、あの頃の歌を楽しむことが精一杯だった。

 

3年ほど前に、彼との思い出を綴って作った曲がある。彼の前で歌うチャンスはあったのだが、歌うとそれが最後になるようで遂に歌えなかった・・・ ここ数年の体調は下降線を辿る一方だったので、今生の別れがあることを覚悟していたつもりだが、逝って7日間のうちに、何度かその曲を追悼の意味で独り歌ってはみたが、切なさが込み上げてうまく歌えない。両親が逝ってから、沖縄に住む愛する人々の死に目に会えないのは、覚悟しているつもりなのだが・・・

 

あいつは思いやりがあり、楽しく明るく太く短い人生だったな~

不自由になった身体から解き放たれ、今ごろ自由に飛び廻っているだろうな~

 

四十九日に線香をあげに帰省をしようと思う。もし、可能なら彼の遺影に歌を捧げてこよう・・・ 

   

                                                     合掌

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

3月

02日

仰げば尊し

 昨日は息子の高校卒業式だった。式が終わり会場の体育館を出ると雪が舞っていて、三月とはいえ無茶苦茶に寒い日だったので、式典中は皆震え上がっていたようだ。

 

立派な卒業式だったが、終盤の『仰げば尊し』斉唱では吹奏楽部の素晴らしい演奏の割に学生の歌声が小さく、内心(なんか盛り上がらんな~♪と・・・)残念に思った。しかし、良く考えてみると、現代の学校の環境や設備に慣れ親しんでいる学生からすると、古めかしい歌詞の内容が脳裏に描けないで当たり前か~・・・

 

 

私は今から41年前に日本復帰3年目になる年に、那覇市で県立高校を卒業した。10期生で当時はまだ体育館がなく、グランドか校舎の各教室の(取り外し可能にしてある(笑))壁を撤去して、行事を行っていた。所属していたバレーボール部の活動も当然グランドのコートなので、沖縄の太陽の下で顔は真っ黒になり、ユニホームは泥んこになって、まるで野球部かサッカー部のようだったが、それでも常に県大会では優勝争いをしていた。(私は常に補欠だったが(笑))

 

 

勉学でも部活でも芽が出ない私だったのだが、唯一活躍の場があったのは文化祭。以前にも書いたが、音楽好きな仲間とのライブであり、そして二年生での演劇大会では『かぐや姫』を喜劇にして、その主役に抜擢された。

 

 

なかなか芽が出ない人生のようにみえても、人は其々に何か必ず天分があるように思う。勉学(ただ勉強をしようとしなかっただけ?(笑))でも部活でも芽がでなかった私の活躍の場が文化祭だったのに気付かせ、導いてくれたのは学友達だったのだ。 私の育った環境が南国の上に、緩い時代だったかも知れない。それでも誰でもどんな形でも、高校生活は人生でいちばん感性の磨かれる時代と思う・・・

 

 

 

               当時体育館がなく、各教室の壁をぶち抜いて完成した特設劇場! 天井が低いし柱がまる見え~(笑)

 

 

 

 息子も部活では芽が出なかったが、私と違って勉学には励んだ。きっと、私が反面教師になったのだろう(笑)

そして三年間、無遅刻、無欠席の皆勤賞を授与されたことは、学友達に支えられ達成できた素晴らしい天分の一つだと思うのである・・・

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2016年

2月

20日

春の足音

10日ほど前、沖縄の姉からメールと共に桜とメジロの(雲の左側)ツーショットの写真が添付されてきた。

 

 

沖縄の桜は赤みががった緋寒桜(寒緋桜)で、ちょうど旧正月の頃に咲く品種らしいし、たぶん間違いないと思うが、薄いピンク色にも視えるな~ まさか染井吉野?

 

ま~植物に疎い者はこんなもんだな(笑)とにかく、暖かさが伝わってくる写真なので、寒さに弱い南国育ちには、沖縄が恋しくなるね・・・

 

 

ちょうど1週間前の土曜日には、フォークソング愛好会の集いで演奏してきた。卒業シーズン間近なので『思い出のグリーングラス』『卒業写真』『仰げば尊し』と、思い出を遡るストーリーを考えていたのだが、参加者が多く『仰げば尊し』はカット!消化不良(笑) 近々どこかの会場でリベンジしよう(笑)

 

下の子が3月1日には高校を卒業する。あれから41年か~ 自作も含め歌の中には色んな思い出が詰まってる・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

2月

11日

再びパーソナルソング

 先日の朝、テレビを点けた瞬間に、以前に紹介した映画『パーソナルソング』の場面が映し出された。それはNHKのニュース番組の特集の中で、国内においても音楽療法の医学的治療としての効果が、注目されてきているというものだった。

 

国内で数少ない音楽療法を取り入れてる病院の中で、京都医療センターの神経内科が、音楽療法を行っている病院の一つということで紹介されていた。

 

高齢化社会になり、これから益々多くなると言われている認知症、その患者に音楽療法取り入れている2例が紹介された。1例目は元音楽教師の方に、音楽療法士が『仰げば尊し』や、思い出深いだろうと思われる曲を弾くと、涙ながらに表情が豊かになっていた。もう1例では、さらに症状が進んだ患者であったが、ご主人と初めて行ったハワイでの思い出の曲『アロハオエ』を音楽療法士が弾き唄うと、表情が和んでくるとご主人が嬉しそうに語っていた。

 

音楽の効果を研究している三重大学医学部の教授によると、認知症での脳の回復は望めないのだが、好きな音楽に触れることにより、新たな脳の発達があるようだと語っていた。

 

 私が音楽療法を知った切っ掛けは、母の病気の癒しの為だっただろうか、もう十数年前になる。たしか日本の音楽療法の先駆者である、日野原重明先生の著書を読んだのが最初だったと思う。その後、ミュージックセラピーという雑誌の中で、(あ~記憶が曖昧になっている(涙)この雑誌が先で日野原先生の著書が後かも?)紹介されていた京都音楽療法研究会の存在を知り入会し、音楽療法士でもない身だが、未だに籍を置かせてもらえている。

 

 音楽大好き一家の中で育った私が、音楽療法に惹かれたのは自然な流れだろう。1999年から2009年の間に書いた『心の時代に思うこと』の中で、父母それぞれとの今生との別れの前に、私なりの音楽療法を贈った経験を書き残したので、いつかライブのときにでも紹介できればと思う・・・

 

 

 

 

 

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2016年

1月

30日

1月が暮れる

 もう1月も明日には終わる。還暦の年男ということで、特別な思いの割に、改めて特別な目標は浮かばない。というのも、すでにここ数年の間に自分のやりたいことは固めているからだ。

 

11日に滋賀県側の比叡山麓、坂本にある日吉大社にお参りしてきた。(20代から30代半ばまでは京都側の比叡山麓、修学院辺りに住んでいた。)ここは今年の干支の申を祀る縁起の良い神社なのだ。遠方でこの神社にお参り出来ない方々で、今年が年男、年女ならば間接的だが下部に写真を掲載したので、閲覧しながら今年の決意や祈願などをされるとよいと思う。

 

 

この1月のNHKのEテレ『東北発 未来塾』(大学生を相手に、塾長になった人が彼らに色々な体験をさせ、何かを掴ませていく番組)は曹洞宗通大寺の住職で、東日本大震災直後から現地で「傾聴活動」を主催しているガンジー和尚として知られている金田諦慶さん(59歳)が塾長だった。今回のシリーズでは、初回の終わり部分を少しと最終回を観ただけだが、初回の中で金田さんの「心を動かし物語を作ることで人は生きていける」という言葉がズンと心に響いている。

 

シリーズを通してまともに観ていないので、金田さんの真意はいまのところ判らないが、新年早々、手帳の開きにその言葉を書き写したのは、今年中にその意味を私なりに探りたいと思っているからだ。

 

偶然にも私と金田さんとは同年齢だが、私はこの齢になるまで真剣に人の為に何か取り組んできたのだろうか・・・

 

私なりの行動の中で言葉の意味を探ることができれば、同じ時代を生きてきた者として、充実した年になるかも知れない・・・

 

 

 

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2016年

1月

07日

まだ観ていない映画の紹介

 昨年の秋だったか、テレビニュース番組の特集だったと思うが、『うりずんの雨』というアメリカ人監督が手掛けた、沖縄を取り上げたドキュメンタリー映画の紹介をしていた。

 

早速、インターネットで検索してみると、ホームページがあり、すでに6月から全国の会場で公開されていた。もうすべての上映は終了したのかと残念に思いながら、会場紹介の画面をスクロールしてみると、東京の幾つかの会場の他に『京都シネマ」が、いま調整中ということで、密かに喜んでいるところだ。

 

また、沖縄では、すでに2会場が終了していたが、今月の17日(日)に別の会場で上映されるようだ。興味のある方々は下記のホームページから其々の会場を検索されるとよいと思う。

 

   http://okinawa-urizun.com/

昨年4月、清明祭(親族でお墓参り)に、20年ぶりに参加するため帰省した。

別日に、義兄と兄と3人で北部の本部半島の北にある古宇利島までドライブをした。

しかし、生憎の雨で視界が悪く海も映えない。この時期、まさに『うりずんの雨』

 

 沖縄出身でも他府県出身でもない、アメリカ人の監督が描く沖縄とは・・・  感想は鑑賞後に・・・

 

 

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2016年

1月

05日

父と師 その1

 今、コーヒーの第3次ブームが到来しているという。私が若い頃に、街のあちらこちらに在った日本の珈琲店、その手作り感を活かしたブルーボトルというアメリカの企業がブームの火付けらしい。

 

その前の第2次ブームは、私が店を廃業する頃の20年ほど前の東京に、スターバックスが、これもアメリカから上陸し、全国に広げている。

 

どうも日本人はアメリカからのブームに弱い(笑)

 

そういう私も少し火が付いたのか(笑)、長年の経験で美味しいコーヒーは淹れられるが、コーヒーその物の知識が古いし、あやふやだ。ここ数年利用している近くの商店街にあるコーヒー豆専門店で、40代の店主の豊富な知識に、いま触発されているところだ。

 

さて、2014/11/9のブログ『マンガもバカにできない!?』の続きになるが、私の師匠(当時40歳?)が弟子(なかには京大出身もいた)を引き連れ独立を果したのは、私がたしか26歳の時であったと記憶している。

 

師匠は辞めた店の前にあるビルの、大通りに面したテナント部分を借り、百人規模の席をコーヒー専門コーナーと食事コーナーに分けての(今までのお客さんをすべて取り込む位の勢い!)の店を作ることにした。工事期間に暫く沖縄に帰省して寛いでいた私は、師匠へのお礼奉公のつもりで、1年間だけ京都に戻らせてくれと、両親に頼み込んだと記憶している。(両親にしてみれば、進学までさせたのに、何で喫茶業なんだという思いだっただろう。ただ、私のようにアルバイト先で師匠に出逢い、大学卒業して喫茶業を出身地の郡山や博多で始めた先輩方はすでにおられた。)

 

飛ぶ鳥を落とす勢いで開店し、師匠は技術的なことを私達に教える以外は、運営に関して自由に取り組ませてくれた。(年末に部屋を整理していた時に出てきた上のチラシは、パソコンが一般には広がってない時代の手書き、あの頃はそれなりの絵は描けていたな~字は下手だけど(笑))しかし、経営とは難しいもので、師匠は常日ごろ「自分は店長の器で、経営者の器ではない」と言っていた。自分の店を持ち、しかも大きな店にレギュラーを5~6人、アルバイトを10人ほど抱えた大所帯は、日々、師匠の心身を疲労させていったと思う。

 

そうこうしているうちに、1年が過ぎ、一向に戻らない息子を案じ、沖縄の父が母を伴って店にやってきた(驚)店の奥の一番上等な席に両親を案内した師匠は、父と対坐した。私は仕事をしながら不安な面持ちで?待っていたと思う。その後の記憶は曖昧だが、話し合いの内容を師匠は語ってくれなかった気がするし、父も私の仕事にいっさい口出しをしなかった・・・

 

数年が経ち、私も30歳にもなると独立など色々な欲望がでるもので、能力開発のプログラムを取り入れて、異業種の方々と勉強会を始めた。さらに、妻との出逢いもこの頃である。5周年のパーティーを師匠と関わりのある多くOBの方々と祝い、7年目の8月16日の大文字の送り火の日に、その日の売上が、目標の30万円(コーヒー1杯270円の時代)を突破した。皆で大喜びをしたが、その1週間後に家族思いで子煩悩な師匠は、自分の子供たちをプールに連れて行って遊ばせ、自宅に戻ったあと倒れ、帰らぬ人となった・・・

 

その後、私は結婚、独立へと向かうが、書くのも読むのも大変だ(笑)今回はこの辺で・・・

 

 

 京都での20代、辛いことがあると大阪や和歌山に出かけ、海を眺めていた私。あんなに美しい海のある沖縄に、なんで素直に帰らなかったのだろうか・・・ ただ、今、言えることは『その時に出逢った人々を大切にした結果が、今ここに実っている』のかも知れない・・・

 

先日、大晦日の紅白歌合戦で紅組の島津亜矢の唄う『帰らんちゃよか』を初めて聴いたけど、良かったな~ 久々に歌に入り込んだ~ 重なるな~ 若い頃の日々に・・・

 

 

 

 

 

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2016年

1月

01日

初日の出(平成二十八年 申)

 

明けましておめでとうございます。

 

穏やかな快晴の朝、宇治橋の欄干から上流を眺めていると、素晴らしい初日の出が登ってきました!

 

皆さんの1年が、穏やかな快晴で素晴らしい年でありますように、心から願っております。

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2015年

12月

22日

あの頃のメロディーが・・・

高校の同窓会(同期会)があった・・・

 

それは、11月28日(土)に那覇で開催されたのだ。ところが、電話があり知ったのは当日の二日前(ゲッ!)

 

同窓会長をやっている同級生から「連絡いってるか?参加できるか・・・?」

 

「えっ、連絡?知らん!そんな急には無理・・・」なんと、翌日の29日にはフォーエバーフォーク本番を控えているのだ。

 

しかし、気になる!そこで、(最近は格安航空もあるし、時間さえ何とかなれば・・・)と思いながら3社ほど検索してみたが、やはり無理だった(涙)

 

写真はH12年の正月に写真部だった同級生が送ってくれた(涙がでるほど気にいっている!) 

タイトルは『ハイスクールデイズ』(高3 S49~50年当時)あれから40年以上か・・・ 

みんなの若かりし頃の姿を載せてゴメン!でも、もう今では誰が誰だかさっぱり判らんだろうな(笑)

 

高校卒業以来、帰省の折には数人の親しい友人には逢っているが、同窓会、クラス会には1度も参加していない。数年前の創立50周年式典に参加したときに住所登録したつもりで、同窓会開催には、ちゃんと連絡があるだろうと思い込んでいた。しかも、開催は来年の還暦の年だろうと勝手に思い込んで、9月の法事での帰省時に、同窓会長等が経営している居酒屋に顔を出して、彼等と接触しなかったのが・・・(無念!)    

 

 

話しは変わるのだが、オリジナル曲『君の風が奏でる』(2014/12/25のブログ『CD作り』)のなかに「僕が今も歌うのは 君との思い出があるからさ・・・」とある。

 

今月28日にバンドでライブ忘年会に参加する。我々のバンマスが他のバンドにも所属していて、そこのリーダーがとてもユニークなやり手で、毎年おもしろい企画のライブを知りあいのバンドを集めて行っているようで、今年は声が掛ったので初参加をさせてもらう。会場になるライブハウスのホームページを観た途端にhttp://www.lr-bros.com/johnnyangel-kyoto/ 上記の歌詞が脳裏に浮かんだのだった・・・

 

高校生で知り合った音楽好きな友人とは、その当時に世界的なアーチストのエルビス・プレスリーとエンゲルベルト・フンパーデインクの曲を中心に、二人でギターを弾きながら歌って、勝手に盛り上がっていたのである。そのイメージが今度の会場にはあるので、フォークソングではなく、あの頃ふたりでよく歌った曲が歌いたくなり、メンバーにお願いして選曲したのだ。 

 

ということで、同窓会に参加できなかった無念を晴らす為に歌うぞ!!(三線で他のデュオの演奏へ参加もチラッと有るかも)お時間のあるかたは、宜しければ上記HPの会場へお越しやす(笑)

 

 

次の同窓会はいつになるだろう? すでに逝った奴も闘病中の奴もいる。そして、この土地に骨を埋めるであろう私・・・

沖縄そして宮崎、故郷は遠くにあるから思い出と共に美しい・・・ 次回はどれだけの仲間と元気に再会できるだろうか・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

12月

13日

少し気の早い今年の総括?

 先日、沖縄の姉がパソコンのメールに写真を添付する練習といって送ってきた写真だが、何の実か判るだろうか?

 

これは、姉の家の庭にできたパパイヤの実なのである。私も答えを教えて貰わなければ判らないのだが(笑)

 

このパパイヤの木をみて、ふと思い出したシーンがある。50年前のこと、諸事情が重なり生まれ育った宮崎の国富町から、両親の故郷である日本復帰前の沖縄へ小3の二学期に引っ越した。住んだのは那覇市に隣接する浦添市(当時はまだ浦添村)、すぐ前は幹線道路が走り、向こう側には広大な米軍基地が横たわっていた。そんなある日、父は私を連れて、普天間基地のある宜野湾市に隣接する中城(なかぐすく)城址で有名な中城村の友人宅を訪ねた。そこは古ぼけた平屋の琉球家屋で、庭には亜熱帯の植物が鬱蒼と生え昼間でも薄暗くて、幼い私は何となく妖怪でも出てきそうでビビっていたのを思い出す(笑)今思えば、沖縄戦で焦土と化した那覇近郊が、戦後に急速に都市化するのと違い、自然豊かなあの辺りは、南部のように激しい爆撃は免れていたのであろう。

 

戦後70年の今年は安保法案で日本は揺れ動いた。また戦争をする国になるのではと不安を抱える人は多い。

 

沖縄では辺野古基地建設反対を知事を先頭に県を挙げて戦っている。(とはいえ、県内にも賛否両論あるのも確かだ。)

 

今の日本の政治経済を動かしているのは、私の年齢前後の世代だ。戦後の貧しさを知っている団塊の世代が老齢期に入り、高度成長期に育った我々は、餓えや貧困や戦争の悲惨さを実感できない。

 

沖縄では、地上戦の悲惨さを後世に伝える語り部の元ひめゆり学徒隊等の方々が、高齢のため引退しているという。広島や長崎の原爆体験者の語り部の方々も同じことであろう。著名人では、最近亡くなった水木しげるさんは、ゲゲゲの鬼太郎などの他に、戦争の悲惨さを描いたマンガも描き残しているというが、それは南方の激戦地区で、ただ一人の生き残り兵とのことであるからだろう。あと10年もすると戦争を実体験された方々は、ほぼこの世を去る・・・

 

人類の歴史は戦争の繰り返しだ、そうしながら歴史は進化してきたのかも知れない。しかし、進化したのは、心ではなく武器なのではないのかな?おかげで現代では、ひとたび世界大戦が起きれば地球消滅の危機にある・・・

 

ならば、我々ができることは従来通りの語り継ぐことに加え、映像やインターネットなどを駆使して、戦争の悲惨さを伝え続けなければならない。そして、人々の影の部分を武器ではなく愛で照らさなければ、世界平和は永遠に訪れないであろう。

 

前回に続き、お気に入りにリンクさせている別の友人のブログに、『からすのパンやさん』などで知られている89歳になる絵本作家の『かこ さとし』氏の動画インタビューが貼り付けられていたのだが、その内容に感動した。高齢である氏の生きる原動力とは・・・

 

友人に了解を得たので、そのブログと共に実感てもらえればと思う。http://ehonkan.main.jp/wp/?p=644

 

地形が変わるほどの爆撃受け、焼け野が原になった沖縄では多くの植物も失われた。写真のパパイヤの木があれだけ大きくなるのに、どれだけの年月を要しているのであろうか・・・

 

平和、そして今パリで行われている国連気候変動会議(COP21)もそうだが、海、陸の動植物、そして人類が永遠に次の世代へ、命のバトンタッチをしていける世界になってほしいと思う年末の一日である・・・

 

 

 

 

 

 

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2015年

12月

10日

共感

 お気に入りリンク集に取り上げているオーナーパテシェである知人のブログを読んで共感したことがある。

 

流行りのお菓子作りばかりではなく、自分が食し、その五感が如何に安全で美味しく感じるかが、最大の製品開発の方向性になっているようだ。

 

前回チラシで紹介したライブが終了した。その後の打ち上げで話題に出たのだが、ライブの運営の問題点がいくつかある。代表的なことをひとつ上げると、終了まえの皆歌でメジャーなフォークソングを全員で歌っているときに、スタッフに近寄り苦言を呈された年配の男性がおられたとのことであった。内容を掻い摘むと、今回からフォークソング愛好会での初回だったのだが、以前と比較すると70年代フォークが少ないし、今回は参加しなかった大御所バンドの持ち歌である、フォーエバーフォークのイメージソングが演奏されなかったのが大きな要因のようだ。

 

我々が参加するようになって3年だが、市の支援事業を離れたとはいえ、10年以上の回数を重ねたイベントには、それを楽しみに来場される方々がおられるのだ。大袈裟かもしれないが、一緒に歌うというか、あの時代を共にしてきた人々と同じ空間を共有することが『生きがい』になられているのかもしれない・・・

 

そう考えると、私達のバンドは演奏曲がフォークのイメージから脱線している。中、高校とフォークの流行った時代だったが、私も団塊の世代からは離れているし、他のメンバーは更に私より10歳以上も若いのだ。其々がフォークも好き、昭和歌謡も好き、Jポップも好き、洋曲も好き、アニメソングも好き、童謡唱歌も好き、etcなのだ。そこを、与えられた演奏時間内にフォークを交えながら、其々が趣旨から懸け離れ過ぎない中で、最もやりたい曲でバランスを取りながら数曲を構成させている。

 

60年、70年代の古き良き時代もすばらしい。しかし、時代は常に新陳代謝を繰り返して、より良きものを求めている。(ホンマに良くなっているかはわからないが・・・)

 

私以外のメンバーの音楽力はかなり高い。彼、彼女らが練習のときに、私の知らない曲や難しい曲を持ってくると、私はタジタジになり、いっぺんに歌声やギター演奏の音量が下がる(笑)それを数カ月繰り返し、何とか人前で演奏できるかなと思えるとこまでもってきて、本番を迎え、終了後の喜びと反省に繋がり、次へのモチベーションを起こす・・・

 

そんなメンバーは其々が他でバンドを組んだり、ソロ活動したり、仕事でも音楽を取り入れている縛りのないバンドなのだ。

 

還暦を目前に、私は何を目指しているのかな?

 

バンドでの私は、楽しさや盛り上がる曲を好んで選曲することに喜びを感じるhttps://youtu.be/NwVWWRzILeMのだが、思いを言葉で理路整然と伝えることがあまり得意ではないので、たぶんソロ活動での選曲やオリジナル曲に触れて貰えたら、知人のパテシェのように、私という個人の目指す方向性を感じてもらえるのかも知れないな・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

11月

25日

ライブ告知

 

 

 

 宇治市の支援事業としては前回で終了した『フォーエバー・フォーク』が、今回より愛好会として新たに発足しました。

 

 

よって、予算も何もかも自分らで捻出しているため、チラシも節約して白黒です。

 

 

どうぞ、皆さん!会場に足を運んで応援してくださいね~

 

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2015年

11月

13日

童心

世界には70億以上の人が生活しているが、1人の人間が生涯で出逢えるのは、その内の0.1%にも満たないであろう・・・

 

「人生は良い出逢いが一番」と前回に書いたが、世界は狭くなったとはいえ、普段の生活において、そうそう大切な出逢いには気付くことができない。

 

そこで、本との出逢いがある。本ならば世界各国の著者や登場人物に出逢える。

 

皆は書店や図書館で本からの『呼びかけ』を感じたことがあるだろうか・・・

 

最近はよっぽどの『呼びかけ』を感じない限り、新刊を買うことが無い。断捨利と言えば聞こえがいいのだろうが、頻繁には新刊は買えない。

 

そこで、今もっぱら利用するのは地元の図書館だ。(本屋さんごめんなさいネ)

 

今回、借りた写真の4冊を観て「ワ~ 幼稚!」と思われるかも知れないな~ しかし、今の私に『呼び掛け』てきたのは事実なのだ。最近は自己啓発書や大人向けの小説よりも、児童書に興味が湧く。還暦が近くなり、子どもに戻ったのだろうか・・・

 

その中でも『やまさきしょうてん ひとくちもなか」の著者である村中李衣氏の作品に惹かれている。ある雑誌に掲載されていた短編を読み、気にいって数冊読んでいるのだが、子どもの目線を的確に捉えているし、文章が小気味よくて読みやすい。そして、何より同世代である著者の空気感に安心でき童心に戻れる。

 

本田宗一郎氏の少年のような生き方や潔さには未だに憧れるし、落語の人情噺には笑いと共に生きることが楽になる気がする。

 

『父さんと歌いたい』(キャサリン=パターソン 作  岡本浜江 訳)偕成社 はまだ読みはじめであるが、児童書コーナーで目に飛び込んできた。‘‘「おまえにゃ、才能があるんだ。」ばあちゃんは、そういうけれど、人前で歌うのを考えただけで、11歳のジェイムスは気分が悪くなる。ばあちゃんと、父さんと、三人で歌うのが何より幸せだった。ところがある日、ジェイムスは、一夜にして、カントリーフォークのスターになっていた。‘‘ 歌う喜びを知った少年の感動と、家族のきずなを描いた、話題作。 とある・・・

 

 

 

 

 

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2015年

11月

05日

ピクニック♪

 3日は第三回フォーエバーフォーク・ピクニックに参加してきた。

 

演奏中の他バンドさんを観ている(100人ギターに参加する為ギター持参の)お客さんの格好からも判るように、風も強く寒い日だった。

 

さて、今回ソロで出演した私はというと、自分なりに重要視していた二曲の、『オリジナル曲』から『明日に架ける橋』へ変わったところで、カポタストを付け替えるのを忘れ、えらい目にあった(笑)

 

二番の歌詞に入る所で気が付いたのだが、何とか一番の歌詞の最高音のキーがでたので、何とかなると挑んだのだが、最後の盛り上がりで声が裏返ったのだった(涙)

 

 

ま~これがライブというものだろう、ソロというのはすべて自己責任なんだねぇ・・・(笑)

 

最後に演奏した『カントリーロード』は、事前に他バンドさんからギターの名手の方にお願いして、ツインギターで盛り上げたので、失敗が帳消しになったかな(笑)

 

それでも感激したことがあったのだ。飛び込みで、フォーエバー・フォークのチラシを置かせて頂いた店の店主さんが来てくれて、演奏後には会場横で福祉施設が出店していたコーヒーとパンを差し入れて頂き、「お気に入りの『ケ・セラ』をいきなりやってくれてありがとう」「緊張しただろうけど、高音が良かった」と褒めて貰えた\(^o^)/ いや~ なんとか、ひと安心、良かった、ケ・セラ、人生は良い出逢いが一番ですねぇ・・・

 

 

 

 

 

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2015年

11月

01日

11月のライブ出演

3日(火) 祝日

 

 第3回 FOREVER FOLK ピクニック IN 太陽ヶ丘 11:00~15:30

 会場:京都府立山城総合運動公園 太陽が丘 中央広場野外ステージ 入場無料

   

    11:35~ ソロ出演  

  予定曲

   ♪カントリーロード ♪ケ・セラ ♪白い一日 ♪ふれあい ♪オリジナル曲 ♪明日に架ける橋 ♪僕の胸でおやすみ

  

  他7バンドが出演

 

  フィナーレ後 15:10~ 100人ギター (ギターを持ってご参加ください)

  予定曲

   ♪花嫁 ♪戦争を知らない子供たち ♪夢の中へ ♪今はもう誰も ♪あの素晴らしい愛をもう一度

 

 

 

29日 (日)

 

 第13回 FOREVER FOLK in 宇治 11:30~17:00

 会場:宇治市生涯学習センター  入場無料 出入り自由

 

    バンド出演

  予定曲

 

  他11バンドが出演

 

  ※珈琲・パンの販売 ギター体験コーナーもあります。

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

10月

18日

明日に架ける橋

 以前にも触れたが、小学校生活での3校目は、那覇市にある天妃小学校に五年生から通いはじめた。そこで出会った友だちの中に、すぐ近所に住んでいたHくんがいた・・・

 

Hという姓は沖縄じゅうを探しても、当時は彼の家くらいだっただろう。戦前の那覇のメイン通りにH呉服店を営んでいたらしい。それを知ったのは生前の父からで、父の生家は同じ通りで陶器店を営んでいて、その呉服店のHくんの父親を良く知っていた(・・・ちゃんと呼んでいたくらい親しかったらしい)からである。戦争で那覇市は焼け野が原になり、お互いの商店も消滅し戦後に復興は出来なかった。戦前はそれなりに裕福な生活をしていたのだろうが、子の代はお互いつつましい生活となっていた。

 

二代目か三代目になるのか知らないが、戦後にも、たまたま両家の子供が友人として出会うとは、なんとも不思議な縁である。

写真=生まれ故郷宮崎県にある綾町の日本最大級の吊り橋 

 

彼の家は父親を早くに亡くし、母ひとり子ひとりであった。お互いの家を行き来しているうちに、高校生の兄が質屋でギターを買ってきて弾きだしたが、私達が中学生になると、兄は厳しい家計の中ではあったが、そのギターを置いて東京の大学に進学した。ラジオの深夜放送全盛期、私は流れてくる曲をチェックしながら、そのギターで呑気に歌謡曲や英語のバラード系で歌を楽しみ、一方のHくんもギターをやりだし、サイモン&ガーファンクルやレッドツェッペリンなどでギターそのものに凝りだした。時代は高度成長期、中2の時には大阪万博があり、Hくんが京都の親戚を頼り万博に行ったのを、羨ましかったのか今も憶えている。そんな彼との別れは高校進学(高1で沖縄は日本復帰)で、私より少し(笑)賢い彼は当時1番の進学校へ行き、55歳での同窓会で40年振りに再会するまでは音信不通となった。

 

どういう訳かHくんのルーツは、いま私の住む京都にある。呉服の本場である京都の人が江戸時代か明治時代だろうか?なぜ遠路はるばる沖縄で商売を始めたのであろう。私の父の母親のルーツは宮崎にあるようだ、陶器商で沖縄に渡ってきたらしい。そんなことを考えだしたら、人間の営みにはとてもロマンを感じる。600年以上もむかし、琉球国の発展の為に明の国から海を渡り、『久米三十六姓』と言われた職人や技術者、学者が中国の明時代に那覇の久米村で骨を埋めた。高校3年生のとき出会った文学好きのTくんはその末裔である。

 

歴史を紐とけば、大和の国も遣隋使や遣唐使などが大陸の文明文化を学びに渡っている。京都や関西圏でよく耳にするHくんの祖先は、渡来人として大和の国に住んだ流れからの姓のひとつと、歴史の授業で学んだ気がする。文字、服、陶器、仏教、政治、商業、工業、農業、文化芸術、etc・・・は、大陸からの渡来人が命懸けで持ち込み定着させたのだ。

 

ア~ 長くなったな(笑)まとめなければ~

 

現代はグローバルな時代であると言われて、多くの人たちが飛行機で世界の空を股に架けている。ところが、人間は古代から他の人々や国々のために命懸けで、陸上の道(シルクロードなど)や、海上の道を利用して文明文化を交流させ発展させてきのである。そう考えると、これから何百年か何千年か後に歴史を振り返ったとき、交流のお陰でどれだけの素晴らしい世界になっているのだろうか・・・

 

しかし、人間も他の生物同様に異なるものを排除しようとする。それがいじめや争いになり、悲しいかな人間の世界では戦争に繋がる。現代は昔のようにドンドンパチパチでは済まされない。世界大戦になれば、ボタンひとつで世界が終わりになりかねない。

 

Hくんの祖先は京都にあり、もっと遡れば大陸にあるのかもしれない。それが、歴史と共にいま沖縄に根付き故郷となっている。そう考えると、誰でも世界中の人と繋がり親戚だらけと捉えると面白い。


いま世界中にどれだけの移民や難民がいるのだろう?そして、その人々を受け入れてる器の大きな国々が、彼らの未来ある子供たちに惜しみなく教育を授けることで、将来その子たちが世界を素晴らしいものにしてくれることが十分あり得るのだ。だから、人々はこれからの地球や生き物のために、惜しみなく働かなければならないのではないだろうか・・・

 

中学生の頃、たしかHくんと一緒に歌ったサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』の歌詞は、まさにそのような意味だろうと思う。

 

このところ爽やかな晴天の続く実りの秋の10月・・・

 

五十代最後の誕生月のせいか、何日もかけて理屈っぽく長々と書いてしまったな~(笑) 

 

残りの人生、明日に架ける橋のような生き方ができるかな・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

10月

06日

宇治茶まつり

一昨日は私の住む街で宇治茶まつりが行われた。

 

写真は地元の人の散歩コースにもなっている大吉山(仏徳山)からの眺めである。朝霧橋(朱色の橋)の延長線上に、この春に大改修を終えた世界遺産の平等院が中央にみえる。

 

朝霧橋を渡った中之島(塔の島)にテントが見え、そこがお茶まつりのメイン会場かな~

 

世界遺産の宇治上神社方面から大吉山へ登り展望台でしばらく過ごし、反対方面に下りると、道元禅師開祖の興聖寺があり、宇治茶祭奉賛会の式典会場になっていた。そこでの行事の一つに、茶せん供養も行われるようであった。

 

朝霧橋を渡り、塔の島のテントでは、お茶、茶せん、地野菜、手芸品などが販売されており、そこから表参道や当日は歩行者天国になっている宇治橋商店街の各店や露店では、地元や観光客で賑わっていた。その後、自宅へ戻るために宇治橋を渡ると、橋の途中に一か所だけ張り出した所があるのだが、今日は注連縄が張り巡らされている。これは守り神の橋姫を祀っている所で、三の間と言われ、豊臣秀吉がここから茶の湯の水を汲ませたらしい。

 

長年、コーヒー党で過ごしている私だが、この祭りを初めて見学してみて、宇治という歴史あるお茶の町に住まわせて頂いている以上は、心穏やかにお茶を嗜なむ時間も持たなければ、と思うひとときになった・・・

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2015年

10月

04日

波の上

旭日が丘のあかね雲

宮居もゆかし波の上・・・♪

 

この詩は通った那覇市立上ノ山中学校の校歌の始まりである。写真はその旭日が丘から眺めた波の上海岸。

 

なんで目の前を道路が走るの???

 

幼い頃の子供たちを連れ帰省し、このビーチを利用したときには、すでに完成していた道路だが、あらためてこの丘から眺めてみると・・・

 

私が過ごした少年、思春期にはなかったのにな~ 

 

利便性と景観は相反するものだな~  

 

この旭日が丘の突端には、少年時代の遊びや初詣などで利用した波之上宮があり、北側には7月12日のブログ(母校の先輩たちが・・・)で紹介した対馬丸記念館が10年ほど前に完成していた。忙しく法事ごとで過ごした帰省だったが、ここへの訪問は外せなかったので、京都へ戻る午前中を利用して慌ただしく行ってきた。

 

 

この他に、対馬丸の犠牲者を弔う小桜の塔など、旭日が丘を囲むように色々な石碑が建てられていた。それらを写真に撮ったので、久しぶりに『何気ない写真館』を更新して数枚載せてみた。


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2015年

9月

23日

光陰矢の如し

 9月17日は父の7回忌で、5月には沖縄への帰省を早々と計画していた。いよいよ15日に帰省という3日前に、姉から連絡が入り、父の末の弟である叔父が急に亡くなり、15日に告別式を行うと連絡が入った。

 

たいへん世話になった叔父なので、告別式への会葬をするため飛行機の便を早めて帰省してきた。叔父は一回り年長の父を慕っていたので、父の没に近い日を選んで旅だったのか、そして私にも二度手間をさせないようにしてくれたのであろうか・・・

 

法事ごとの合間に色々と足を運んだ場所もあるが、そのことは次回に触れよう。  

 

京都に住んで早40年に迫った。あのときの叔父はまだ50歳だったんだなぁ~

 

これで父の5人のきょうだい全員があの世に旅立ち、ひとつの時代が終わってしまったことをしみじみ感じている・・・                                                                                          

                                                       合掌

 

 

 

 

 

 

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2015年

9月

22日

吐故納新(とこのうしん)

 昨日は京都音楽療法研究会の例会で前半の発表を担当した。

 

15日から19日まで法事で沖縄に帰省していたので、発表前日に急きょ内容をまとめ、粗だらけで当日を迎えた(涙)

 

相手が素人なら誤魔化せるが、音楽も療法も専門の方ばかり(焦)

 

ジタバタしてもはじまらないので、私なりに今あるもので、『音楽療法士を癒す』という大それた取り組みをしてみた。

 

皆さんの感想を私なりの解釈をすれば、スキルは別として(笑)

宮崎生まれで沖縄育ちという環境が、以外と人々を癒しているみたいだ(良いのか?悪いのか(笑))。

 

                           そして、こんな歌声に産んでくれた両親に感謝というところかな。

 

後半は音楽療法士、臨床心理士の資格を持つKさんの担当。私より一回り以上若いのに、参加者が自然にペースに巻き込まれるというか、それぞれが勝手にのめり込めるという堂に入った進行(これをファシリテータというのだろう)はさすがで、専門家として生きることのすばらしさを感じた。

 

何はともあれ、今ある自分をさらけ出し、欠点に気づき捨てる。すると、人々のアドバイスから自分を変化させる良いヒントが得られるようだ。それを四字熟語で『吐故納新』というのであろうと、インターネットで検索してみて初めて知った(笑)

 

 

 

 

 

 

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2015年

9月

20日

同日、同会場での催し

八月の末だったか?地元の駅を出ると、左のチラシが配られていた。

 

内容に目を通し、日時と会場を確認すると、私が所属する京都音楽療法研究会の例会の日と会場が同じなのである(驚)

ただ、時間は一時間後のスタートなのだが(笑)

 

今回は前半に、私がライブ的音楽療法の実験のようなことをして、後半は音楽療法士で臨床心理士のKさんが担当する。

 

今回は会場が広く、会員だけでなく興味のある方は参加可能なので、会場費と資料代の頭割り100円前後をお持ち下さい。(例会時間:13:30~16:30)

 

一般参加ご希望の方は、まことに急で申し訳ありませんが、当日の午前10時までに、上の『お問合わせ/お申込み』から入って頂くか、私の携帯情報をご存じの方はご連絡ください。

 

シルバーウィークでお時間のたっぷりある方は、チラシの講演会にも参加されると充実した1日になるかも知れませんネ。(注意:双方の主催者は全く無関係です。)

 

私は準備などで、残念ながら講演会への参加は無理だと思いますが・・・

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2015年

9月

07日

この道一筋

 『お気に入りリンク集』に紹介した友人、知人たちのブログを定期的にチェックする・・・

 

すると、みんな人生を一所懸命に生きているのがよく伝わってくる。

 

それぞれに色んな喜怒哀楽を経験し、健康や私生活、人間関係を含め仕事や経営においても、もう駄目だと思ったことは一度や二度ではないだろう。でも乗り越えてる! この道一筋に!

 

それは、好きだから?愛しているから?愛されているから?そして、意味あってこの世に生かされていることを、家族、他人、性別、年齢を超えて身の回り(森羅万象すべて)から学ばせてもらっているからなのだろうか・・・

 

そんな素敵な方々に私も学び感謝し、お返しをしていく残りの人生にしていきたいものだ・・・

 

 ※写真は四年前のこの時期。父の法事で帰省した際、那覇市の桜坂劇場の傍にあった看板(このドキュメンタリー映画を観賞した)を写したもの。戦後の貧しい生活の中で喜劇一筋に生き、今も人々に希望を与え続けている女優 仲田幸子さん 

 YouTubeで観れますよ~

 

 来週は父の七回忌だ・・・

 

 

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2015年

8月

26日

去りゆく夏

京都の夏はお盆の五山の送り火が終わると、一気に秋の気配が訪れる。とはいえ、今年の夏は八月後半の地蔵盆が過ぎても暑い。

 

今月は私にしてみれば、色んなところでソロライブ活動(8月ライブ予定参照)をした。フォーク愛好者、ストリート、子ども、老人と対象に統一性がないのは私の個性だと思っている。

 

下手すると優柔不断と思われがちな、バランスを重視するてんびん座生まれというのが一番大きい性格の要因だろか(笑)

それに音楽好きな大正の前半生まれの両親と、年の離れた姉二人と兄が聴いたり歌ったりする音楽を、末っ子の私は生まれた時から聴いて育ったことが、知らず知らずに色んな年代の曲が蓄積されていると思う。さらに、宮崎、沖縄、京都と、これも統一性のない土地で人々と出逢い人生を重ね、色々なジャンルの音楽を聴き歌う機会を得てきたのも大きい。

 

人は一人として(たとえ家族でも)同じ人生は歩めない。どんなに綿密に計画して目標を定めても、それ以上に自分の人生の方向を導く大いなる存在があるような気がする。

 

なんて、難しいことを書きだしたら止まらなくなるので(笑)結論は人の曲ばかり演奏するより、下手でも自分で作った曲を、少しずつ披露していこうと思えてきた。人は一人として同じ人生を歩めないけれど、自分の思いを世に出してあげることで、少しでも人々の心に共鳴♪するものがあればと思う。

 

普通こんなこと、人生の春夏といえる年代に気付くものだが、秋に入った年代に思うなんて遅いかな?でも、しゃ~ないな~

これが私の個性なのだから(笑)

 

あっ! 沖縄は今日がお盆(旧暦)のお迎え(ウンケー)だな~  (※昨年8/10のブログ『エイサー』参照) 

 

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2015年

8月

01日

8月のライブ予定

毎年の恒例『宇治川花火大会』が安全面の整備のため、去年の川の増水で中止に引き続き、今年も早々に中止が発表されていた。

 

その代替えとして、今年は今月8(土)9(日)に『宇治歴史夜噺』(←検索)というイベントが行われる。

 

8月のライブ予定

 

8(土) 13:30~16:30

  福祉公社中宇治事業所

   第1回愛好者の集い

   

     17:30~

  宇治歴史夜噺

   ストリートライブ

 

 

22(土)13:00~

  えほん館 (京都市右京区上桂)

   友さんと音楽あそび



23(日)13:30~

  京阪ライフサポート宇治

   夏まつり

 

 

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2015年

7月

20日

海の日

きょうは海の日。

 

何か海に因んだことをしたかというと・・・

 

五月の末に家を出て京都市内に住む娘のワンルームマンションのエアコンの掃除に出かけた。娘も社会人になると、父との関係も微妙で、必要な時だけに利用されるという、付かず離れずの関係になる(笑)とはいえ、娘の名前に海が入っていることから考えると、今日は不思議と海に因んだことをしたのかも知れない(笑)

 

 

その後、娘のマンションから歩いて15分くらいの所にある、ライブハウスの老舗『拾得(じっとく)』に行って来た。今晩の出演者は、大島保克といって沖縄は石垣島出身の唄三線の中堅どころの名手で、あのBEGINの三人の同級生のうえに、デビュー曲の『いらよい月夜浜』(この曲は何とか私も唄三線をこなせるよ♪)はかなりメジャーなのだが、飾らず朴とつとしていて、唄声と三線は逢愁をおびていて心に沁みた♪♪♪

 

石垣島というと一度だけ行ったことがある。高校を卒業して浪人している時に、東京から帰省した同じ小学校(天妃)、中学、高校に通った友人と、彼の祖父母が石垣島で民宿を営んでいたので、一緒に那覇から一昼夜かけて船で遊びに(浪人生のくせに?青春にありがちな少し深いわけがあったのだ(笑))行ったのである。

 

船のデッキに寝ころぶと満天の星、民宿のじいちゃんとばあちゃんは優しいし、桟橋での初めての海釣り、川平湾という見事な海での戯れ、舟で竹富島に渡ると赤瓦の家並みや星砂など長閑な風景etc・・・

 

後にも先にも、あんなに真っ黒になったことはない。今あるシミやソバカスはあの時の後遺症なんだろうな~(笑)

でも、海はいいな~ 青春のあんな徹底的な遊びも、平和だからできたことなんだね・・・

 

※写真は現在の川平湾らしい。当時撮った写真があるのだが、しまい込んで出てこない(涙)出てきたら差し替えます。

 

 

 

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2015年

7月

12日

母校の先輩たちが・・・

※7月9日掲載分に加筆し変更しました。

 

私は6年間で3つの小学校で学んでいる。小1~小3の1学期までは、宮崎市に隣接する田畑や山河に囲まれた、自然豊かな国富町の長閑で小じんまりした本庄小学校(写真は去年訪れた時の校庭→姉二人と兄はここを卒業している)で学んだ。その後2学期から4年生までは復帰前(アメリカの統治下)の沖縄で、那覇市に隣接する当時まだ自宅の前は幹線道路を挟みアメリカ軍の広大な基地があった浦添村(今は浦添市)で、仲西小学校という1学年10クラス以上あったマンモス校(当時はクラスにはアメリカ系のハーフの子も2、3人いた)で学んだ。そして、小5、6年は父(大正3年生まれ)も通った那覇市の天妃(てんぴ)小学校という小じんまりした(たしか運動会になると隣の上ノ山中学校のグランドを借りた記憶が??)所で学び、卒業を迎えた。

 

父は転勤族だったわけではないが、その6年間は家族にとって激動の時期で、幼い私はそれに翻弄されたのかもしれないが、お陰で、色々な子ども達と学び遊べたことは、今となっては貴重な財産である。ここで、その様子を書こうと思うと小説にでもしないと収まらないので控えるが(笑)、最終的に父が尋常小学校当時に通っていた天妃小学校(男子のせいか、子どものころ天妃という校名が女性的で恥ずかしかった?(笑))の同窓になったのは、何かの因縁なのかも知れない・・・

 

~ここまでは序章~

 

先日、住まいのある宇治市の図書館に訪れた際、お薦めコーナーに何気なく目をやると、『対馬丸』(大城立裕・著 講談社文庫)の文字が心の眼に飛び込んできて、すぐさま手が伸びてしまった。太平洋戦争の末期、沖縄での地上戦が始まる前の夏(昭和19年)に、学童疎開のために九州を目指していた船団の中の1隻がアメリカの潜水艦に撃沈され、学童、一般あわせて1661人(うち学童834人)が海に投げ出され、学童である6歳から14、5歳の生存者は僅か50数人という悲惨な事件である。

 

ここで、本の解説を長々と書く訳にもいかないので結論を先に書くが、天妃小学校(戦時中は国民学校と称された)の学童も90名近くが犠牲になっていたのだ・・・

 

その後は私の家族達も命からがら九州に疎開し、10月10日には那覇市の9割が焼失する大空襲があり、翌年3月20に沖縄戦が始まる直前までに延べ187隻の船が日本本土や台湾に疎開者を運んだそうである。

 

今まで、沖縄戦の詳細は知ろうとはしなかった。(重たいので避けていたのかも・・・)しかし、辺野古問題や戦後70年の報道や憲法改正問題などて、私の心も正面から戦争の記録を見詰めざる負えなくなている。あの時、私の家族が『対馬丸』に乗船し犠牲になっていたら、私は当然、生まれてないから存在していないし、天妃小学校の多くの先輩方も犠牲になったと知ったことで事件の身近さを感じ、一段と反戦への思いがつのってきた気がする。

 

十年ほど前に対馬丸記念館が開館したということなので、9月の父の七回忌で帰省する際には、記念館を是非とも訪れなければと思う日々である・・・

 

 

  天妃小学校の校門(開くことはないが)の一つ上天妃宮跡の石門が戦火を逃れ今もある

 

 天妃宮は航海安全の守護神ということだが、戦争という人災からは対馬丸は守れなかったということか・・・

 

     

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2015年

7月

07日

歌は世につれ ♪ 世は歌につれ ♪

 今年も知人の主宰するシニア(90~50代の方々)の歌の発表ライブにスタッフとして参加してきた。


その帰り、京阪中書島駅のホームで去年と同じように山城運動公園(太陽ヶ丘)で二日間行われたロックフェスティバル『京都大作戦』帰りの若者たちとすれ違った。(昨年は『人生スクランブル』というタイトルで書いた。)


そして、去年と同じように私は彼らの乗ってきた電車で帰路に・・・ 彼らは私の乗ってきた電車や向かいのホームから帰路に・・・


それぞれの人生にドラマがあり、喜怒哀楽があり、そして歌がある・・・


                                今年も七夕がやってきたな~♪ 雨だけど・・・





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2015年

7月

01日

あの頃へ

 平日の休日、風に乗ってチャイムのメロディが運ばれてくる♪心の中で(息子が通っている高校からか?それとも小学校から?)と思いつつ耳を傾けていると、懐かしさよりも切なさがこみ上げる。楽しかった40年ほど前の高校生活は、時間や距離が遠く離れれば離れるほど、メロディが運こんでくる思い出が、瞬間移動的にあの頃へ私をいざなう。

 

元気な姿で卒業し進学、就職していった同級生たち。スタートは一緒でも、その後に待ち受けている人生は其々に違ってしまった。そして二十代で交通事故や病気で逝ってしまったヤツもいれば、中年になり生活習慣病になり逝ってしまったヤツもいる。それは、しかたのないことなのかな・・・

 

70年前の戦争で学徒動員され命を落とした学生や女学生たち。 一方、幸いにも生き残れた方々は口を揃えて「なぜ自分だけ生き残ってしまったのか」と呟き、戦争を70年間背負い続けている・・・

 

これからの若者にどのような思い出を残してもらいたい? 映画の地球交響曲(ガイアシンフォニー)などを観ると戦争なんかしてる場合ではないとつくづく思う。つまり、宇宙から地球を眺めるイメージを持つことが大事な気がする。

 

ジョン・レノンの『イマジン』って凄い曲なんだな・・・♪

 

 

 

 

 

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2015年

6月

23日

縁とは

 今日の沖縄は慰霊の日である。慰霊の日については3年前に書いたので、特にここでは取り上げない。私が望んだつもりではないのに?ここ数カ月の間に、『引きうける生き方』という本や『沖縄県民大会』のライブ映像や『沖縄戦 全記録』というテレビ放送を次々と観る機会が訪れ、戦争の悲惨さから目を背けることができなかったし、その犠牲者の上に我々が生かされていることを痛感した。これらを知る切っ掛けは、沖縄に住む姉からの影響が多大だが、そこには『縁』がある。

 

というのも、実は五月末に合わせて公募の童話を書いていた。それも、戦前、戦中、戦後の沖縄で苦労しながら逞しく生きた母方の祖母をテーマに書いていたのだ。(ここでは、まだ紹介できないが)このように何かを突き詰めているとき、その答えやヒントを掴む現象が起こる。これは人間知を超えた何者かが与えてくれているのであろうか?

 

さらに、書くことに行き詰まっていると、友人のホームページから童話作家の講演を知り、その壮絶な人生を乗り越えて生き続けているからこそ、子ども目線の愛ある創作ができることを痛感させられた。この『縁』も私にとって必要だから起きた現象なのだろう。(しかも、主催団体の発行しているニュース紙に講演の感想を書く羽目になったのだ(驚)拙い文章力を鍛えられた出来ごとだが、これも『縁』なんだな(笑))やはり、私の人生観は甘い、甘い!!

 

それから、つい最近読み終えたのだが、中勘助が書いた『銀の匙』という純文学を読む『縁』があった。自分ではこの手の小説には手を出すことはなかったのだが、一年ほど前から利用しているコーヒー豆販売店の店主(わたしよりずっと若い(笑))が貸してくれたのである。読み始めは躊躇気味だったが、すぐに引きつけられた。大人目線の幼年、少年時代の回顧録ではないのだ。それはもうそのときの自分になり切った表現力なのである。時代や環境はかけ離れているが、私自身の幼少時代の性格や遊びの好みにも重なるし、これこそが私の求めている文章なのだな~。 なかなか開かなかった古い茶箪笥の抽匣から見つけた銀の匙って、作者自身の心なんだね。きっと・・・

 

ということで、『縁』とは知らず知らず常に求めていたことが、あるとき身近な人を介して現象として現れることなんだ。 

 

『良き想念』は『良き出逢い』を連れてくるんだね・・・

 

 

 

 

 

 

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2015年

6月

17日

映像の力

 もう二十年以上も続いている龍村仁監督のライフワークである『地球交響曲 第八番』を観てきた。

 

この映画は第一番から欠かさず観ているが、その切っ掛けは、当時、異業種の方々と能力開発プログラムの勉強を熱い志を持って?やっていたつもりのときに、そのメンバーの1人から薦められたと思うが、何方だったかは記憶から消えている・・・

 

過去のシリーズ(地球交響曲で検索できる)には音楽家、芸術家、冒険家、活動家、職人など多くの方々が出演して映像と共に語っている。

 

そこにある共通した活動の転換期は『大自然の声に触れた時の畏れ』ではないかと思う。

 

無限の大宇宙の中の太陽系第3惑星『地球』という小さい星に住む我々人間が、自らの力(科学、政治、経済、戦争etc)で地球を支配しようとしても、かならず打ちのめされてきている・・・

 

今回は前夜に観た『沖縄戦 全記録』(すでにYouTobeにアップされている)を観た後なので、この映画の見方も少し変った気がしている。

 

いずれにしても、我々人類は手遅れにならないうちに『宇宙の声』に気付きたいものだ・・・

 

 

 

 

 

 

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2015年

6月

16日

脳裏に焼きつく映像

 朝日新聞6月14日(日)のテレビ欄を切りぬいた記事だ。

 

事前にこんな番組あるとは知らず、夜になり新聞のテレビ欄を観て気付き、この番組に見入ってしまった。

 

前回のブログ『短所は長所』に、戦争の体験談も長所になりうると思って書いたが、とんでもない・・・

 

戦争は永遠に誰ひとり幸せにすることのない、愚かな行為であることを痛感した。雨あられのように降り注ぐ銃弾の中を、逃げ惑い倒れて行く故郷の住民の姿が、未だに脳裏から離れない・・・

 

 ※本日深夜(日付は17日)0:10に再放送

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2015年

6月

12日

短所は長所

梅雨には雨が降る。それは大自然の摂理ではあるが、やはり降り続けると鬱陶しいものだ。しかし、その御蔭で水が飲め作物が育ち、それを頂き『命』が育まれる。

 

憧れたり尊敬する人の本を読んだり話を聴くと,その中には壮絶なマイナスの(戦争、暴力、貧困、病気、災害、失業etc)体験談がある。

 

しかし、そこを潜り抜けて来た人たちは、何故か底抜けに明るいし、『愛』がある。本人の器の中で、生きるか死ぬかのギリギリの場面で生かされた方々は、後世を生きる世代の為に、その体験を伝える使命を与えられているのだろうか・・・

 

とても、私のような呑気で臆病な性格のものには、与えられる使命ではないようだ。

 

性格や環境そして歩んできた人生で、とても人々に伝えられないと思っていたことが、意外と周りに勇気や感動を与える。

長年短所だと思って悩んでいたことが、実は長所になりうるのだ。人生は面白い!

 

だから、人は人に伝えようとする姿勢と、人を知ろうという姿勢が大事!知らない所に誤解や差別がおきる。雨降りの少し心身の重い朝、何となくそんなことを書いてみたくなった・・・

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2015年

6月

01日

6月のライブ

  ・25日(木) 京阪ライフサポート宇治  対象・・・施設利用者のみなさん

           唱歌、歌謡曲、フォーク、民謡その他みなさんが楽しめそうな曲

 

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2015年

5月

31日

文章作り は 文章創り

 この所ブログから遠ざかっていた。というのも、別件で二か所に原稿を送る作業をしていたからだ。(どんなって? いまは言えない(笑))

 

自由にブログを書いているのは楽しいが、文字数に制限があり、しかも文章の専門家のチェックが入ると思うと、ほんと!脳も肩も目もカチカチにこる辛い作業となる(笑)

 

小、中、高は国語きらい!本よまない!作文なんてとんでもない!! だった人間が何で書くことが好きになったかと言うと・・・

 

どこかで書いたと思うが、京都に来てからの学生時代に、ある教科で本を読み感想文を提出ことになった。数冊から選択できたので、私は民俗学者である柳田国男の『海上の道』を選んだ。(たぶん海が好きという単純な理由だと思う(笑))すると、自分のルーツに繋がる’’日本人はどこから来たか?’’がテーマで、そこには沖縄の民俗学が多くちりばめられていているし、今でいうグローバルな視点がとても興味をそそったと記憶している。

 

そして作文を提出すると、すごく評価が良くて、驚いたことにその担当講師から直々に手紙を頂いた。今も大事にしまってあると思うが、それは「常に沖縄に関わって生きなさい・・・」というような内容だったと思う・・・

 

人間は単純ですねぇ~褒められると、そのことが好きになる(私が単純なだけか?(笑))

 

このごろ思う、何でも知識の羅列では人の心は動かせないと・・・ やはり、自分自身の内面にあるテーマは人それぞれ異なるので、それを掘り起こすことが大事だと思う。 それが、文章でも音楽でも美術でも料理でも仕事でも教育でも人生でも・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

5月

17日

自分で決めるということ

 大阪で都構想の住民投票があった頃、故郷の沖縄では辺野古新基地反対の県民大会が行われていた。実は沖縄に住む姉から地元新聞社のライブ配信があると連絡があったのだ。「武器を楽器に!」とむかし訴えていたミュージシャンの伝統を受け継いだ始まりで、中盤に流れている戦争を体験した女性の「基地は抑止力にならない!」という言葉は重い。沖縄や大阪の様子を観て、つくづく思うことは、「どんなことも自分自身の心で考え答えをだす」ということ。自分自身の人生や次の世代へ残す平和や生活環境は政治家に任すのではなく、自分で責任を持たねばと思う一日になった。

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2015年

5月

16日

ライブ中止

 本日5月16日(土)予定されていました第18回みどりの中deミニライブは雨天のため中止となりました。

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2015年

5月

12日

100人ギター

 10日に開催された 第2回 FOREVER FOLK ピクニック In 太陽が丘 は、快晴のなか無事に終了した。

 

広大な運動公園なので多くの運動関係者や行楽客があり、おまけに、初めてのこころみという結婚式もあり、そのことは地元の新聞にデカデカと載っていた。(ちなみに我々のコンサートのことは新聞の片隅にも載っていなかった(笑))

 

さて、我々のバンドは7組中の2組目で、「どうにかなるさ」「ふれあい」「少女」「やつらの足音」「出発の歌」を演奏させてもらった。出発の歌では、お客さんに参加してもらい、終わったと見せかけて、しつこいほど(笑)サビを繰り返して盛り上げたつもりだが、喜んでもらえたかな~(笑)

 

フィナーレの100人ギターの参加者は、バンド関係者(ギター担当者)と、お客さん(ギターを持参した人たち)合わせて35人で、前回よりも微増したということだ。演奏曲は「花嫁」「戦争を知らない子供たち」「夢の中へ」「今はもう誰も」「あの素晴らしい愛をもう一度」で会場全体が盛り上がった。

 

次回の第3回は10月に予定されている。このブログを観て、ギターが押し入れや倉庫に眠っている人がいたら、次回は参加しませんか?京都は勿論、関西一円、九州、沖縄、四国、中部、東京など等の友だちどうですか(笑)もちろん、これからギターを始めても遅くないですよ~

 

ホールのライブもいいけど、野外は気持ちいいねぇ~ 100人揃った暁には、どんだけ盛り上がるか楽しみです!

 

                                       ※写真=バンドメンバーからの提供

 

 

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2015年

5月

04日

春やねぇ~

 ゴールデンウィークの前半、宇治に引っ越してきてからの17年間、ずっと利用している散髪屋さんの店先に、藤の花が咲いていた。

 

木造の古い家の店内は二席のみで、中年の夫婦が切り盛りしていて、大きなスピーカーに、いつもジャズが適度のボリュームで流れている。

 

いっけん頑固そうなマスターだが、ジャズのことを話し掛けると、嬉しそうに話も弾み、お薦めのCDアルバムを貸してくれたこともある。

 

いま、宇治は多くの観光客で賑わって、大改築を終えた世界遺産の平等院も、藤の花が咲き誇っている。

 

ひと足先に咲いた散髪屋さんの藤の花はもう枯れてしまった。無名な場所だけど、満開の時は道行く人々が足を止め、盛んにシャッターを切っていた。

 

髪がさみしくなるに連れ、散髪屋さんもLCC並みのところに替えるべきか、という葛藤もあるが(笑)

 

でも、何気に癒せる空間を持ったお店って,なかなか手放せませんよね~

 

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2015年

4月

29日

5月のライブ

(5/2更新版)


これから先、どの程度のライブができるが分からないが、告知をしてみることにした。

 

5月10日(日)

第2回 FOREVER FOLKピクニック

山城総合運動公園 太陽ヶ丘 野外ステージ   11時~

バンドで出演します ♪どうにかなるさ、♪出発の歌 他3曲予定

(その他6組が出演)

  

   100人ギター (全バンド終了後)

   ギターを持って来たお客さんにも参加してもらいます

    ♪花嫁、戦争を知らない子供たち、あの素晴らしい愛をもう一度、他

無料  雨天中止

 

 

5月16日(土)

                 第18回 みどりの中deミニライブ

                 山城総合運動公園 太陽ヶ丘 遊びの森 11時半~

                 ソロで出演します  ♪太陽のあたる場所、♪カントリーロード、♪乾杯 他5曲予定  

                           (オリジナル曲もあるかも)

                 (その他2組出演)

                 無料  雨天中止

 


 

『夢追いライブ』にも書いているが、音楽に限らず、美味しいコーヒーの入れ方とか、おじさんへの簡単料理講座、etc

なんかもライブとしてできたら面白いな・・・

 

 

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2015年

4月

28日

LCC(格安航空)の魅力

 皆は「旅行」と「旅」の区別をどこでしているのだろう?

 

電車なら新幹線や特急と各駅停車などのいわば鈍行、船ならば豪華客船や高速船と島伝いを行くフェリー、バスならば観光バスと路線バスというところかな?

 

目的地が同じで、速さが求められるのが「旅行」なら、乗り降りのなかで、色々な人生模様を感じられるのが「旅」というところかな・・・

 

そこからすると、飛行機はまさに旅行の代表だと思っていた。ところが、今回の沖縄への帰省には日本のLCC代表格であるピーチを利用したのだが、旅行という概念が覆され「旅」になったのだ。

 

関空からの出発では、巨大で綺麗なターミナルではなく、そこからバスで移動した小振りなターミナル。それでも国際線もあるので、休憩できるようなソファーも完備した綺麗な建物だった。搭乗には雨の中を用意された傘で機体(触れるほど間近に観れる)まで歩かされ、タラップを上り乗り込んだ。キャビンアテンダントは若く華奢なのだが、少ない人数で(そりゃ~ここにコストをかけられんもんねぇ~)非力な女性客の荷物を、背丈より高い棚にポンポンと放り込んでいく様に驚いていると、気がつけば満席!

 

那覇空港からの帰りも面白かった。メインターミナル前からの移動バスは、倉庫の並ぶ中を走っていく。思わず「乗り間違ったか?」と焦るうちに、プレハブの倉庫のようなターミナルへ(そりゃ~こんなところにコストをかけられんもんねぇ~)到着。

 

ターミナルは日本人のほか、リュックの欧米人、団体の中国人など様々。いちばん驚いたのは、喪服を着た高年の夫婦が出発を待っていたことだ、「ちょっと大阪まで焼香を・・・」という感じなのか?そこはまさに路線バスの待合室・・・ 

 

 

沖縄から戻り、図書館でたまたま開いた本のコラムにも「・・・簡素なLCCのターミナルにこそ、飛行機に乗って移動するリアリティが宿っている。・・・あらゆる種類の人がたまたま同じ時間、場所に居合わせているという奇跡。・・・」と表現していた。(気持ちのいい聖地 《関西編》 フェルニッチ=著 青幻舎 より)

 

 

「旅行」のような人生に若い頃から憧れるのだが、行く先々での出逢いに翻弄されながらも、それを楽しんでる人生は、やはり「旅」好みなのかな(笑)・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

4月

24日

小鳥との共演

 先日(4/17)のブログ『再会』で書き忘れていたことがある。

 

まずは、大親友と楽しく歌っていたときのはなし・・・ 

 

三時間にも及ぶ二人の歌声に、遠巻きに聴いていた奥さんから「外に、どこからか小鳥が飛んできて、二人の歌声に合わせて、さえずっていた♪」と、不思議でうれしい報告があった。(写真はイメージ)

 

歌や演奏を褒められるより、これほど感動することはない!

利害を超え、音を楽しむことが音楽の本来の姿だとしたら、自然の美しい声の象徴である小鳥が共演してくれたことに、親友との深い絆を感じずにいられない・・・

 

 

そして、それに先立ち逢った、美しい海のそばで貸別荘を始めた友人の話にも、感じることがある。プロのピアニストとして、40年もの間「競争と緊張にさらされ身体がガタガタになった」と・・・。そして今は、「自分や他人の演奏を自由に楽しむことに喜びを感じている♪」とのことだった。

 

 

帰省中のこのふたつのおはなし。  わたしが目指しているミュージック・セラピーのヒントになった気がしている・・・

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2015年

4月

19日

こんな愛深い方が沖縄に!!

前回に続くが、沖縄への帰省の最終日に、姉ふたり共に薦められて購入した本がある。

 

引きうける生き方  安田未知子 著  WAVE出版

 

帯に書かれた細かい字には『戦後、教師として不遇な環境の子43人を引き取り、現在は介護老人保健施設の苑長としてお年寄りを励ます。毎朝、数時間は悩める人の電話相談。しかしその間、わが子の死、生死をさまよう大病もあった・・・。』とある。

 

とても読みやすい文章なので、いっきに読んでしまったが、沖縄における戦前、戦中、戦後の実体験には心が揺さぶられ続けた。

 

私も生まれ育った宮崎から、日本復帰前の沖縄に、小学校三年生で転校した。最初の小学校では、明らかに米兵との間に生まれただろうと思える子達と学び遊んでいた。その同級生たちが、現在どのような人生を歩んでいるか、分かる術はない。しかし、この著者のような素晴らしい先生に出逢い、学び、世の中に貢献している事を願う。

 

そして、できるだけ多くの方々に、この本を読んで頂き、戦争の愚かさを知ってもらい、辺野古(へのこ)の海に新たな基地が出来ることのないように、そして、次々と現存の基地が縮小して行くように、願ってもらいたいものである。

 

 

 

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2015年

4月

17日

再会

二十四節気に『清明』という節があるのを、どれだけの人が知っているだろうか?

 

年明けから数えると、小寒から始まり・・・啓蟄、春分と来て、その次が清明(春先の清らかで生き生きとした頃)で穀雨、立夏・・・と計二十四節続く

 

先週末に沖縄へ帰省してきた。その最大の目的は病気療養中の大親友を見舞うことだったのだが、ちょうど四月五日に清明の時期に入るということで、きょうだい達に相談して帰省中に『清明祭』をして貰うことにした。

 

清明祭とは中国との関係が盛んだった琉球王朝時代の1768年当時の王が、中国の清明祭を見習い、城のあった首里で行う事を定め、それが沖縄全域に広まったようである。

 

今23歳の娘が3歳の頃に家族で帰省して、清明祭に参加して以来だから、20年振りになる。当時は両親も健在で多くの親戚が集まり、墓掃除をして、お供えをして拝み、その場でピクニックのように飲食したものである。あれから20年の歳月が経ち両親やその他親戚があの世に旅立ち、この墓の中・・・今は行事も簡素になり、今回集まった親戚の参加も減り、飲食は兄の住む実家で行った。今後、子や孫の代に、この行事をどう伝えて行けばよいのだろう・・・

 

翌日の午後は大親友を見舞う約束をしていたのだが、それまでの空き時間に中学、高校と同級生だった友人(大親友とも繋がっていて、音楽を我々と一緒に奏でてくれたこともある、憧れのプロピアニスト)が昨夏から恩納村にある真栄田の海岸で貸し別荘を始めたと聞いていたので、清掃時間に2時間ほど見学させてもらった。(写真はそのテラスから曇り空ながらの美しい眺め。詳しくは上記バナーからお気に入りリンク集で)OPENまでの経緯もじっくり聴かせてもらい、生まれ育った沖縄の海を愛し続けた新たな挑戦に、頭が下がる思いをしてきた。

 

 

その後1時間ほど車を走らせ那覇に戻り、午後4時ごろ大親友の自宅を訪問した。1年半まえには居酒屋で一緒に飲めるほどであったが、今回は介護ベットのうえ・・・ ショートステイを利用し、その他の3日間は同級生でもある奥さんが付きっきりである。彼との繋がりは過去のブログでも紹介しているように、高校1年生のときに私に人前で音楽を楽しむ事を教えてくれたところから始まっている。

 

だから、いまギターを持てない彼に代わって、持参した楽譜で当時に盛んに二人で歌い演奏した曲を、およそ3時間も楽しんできた。帰り際「お前の歌で元気がでた!」と言ってくれた。後日、奥さんからのメールによると「今度いつ帰ってくるだろう?」と楽しみにしているらしい・・・

 

 

今回の帰省で先祖、きょうだい達、親戚、友人等との心温まる『再会』ができ、また新たな挑戦への勇気を頂いた気がしている・・・

 

 

 

 

 

 

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2015年

4月

05日

老舗めぐり

 先週のことだが、京都市内での学生時代から続いている友人と、老舗めぐりをしてきた。

 

その友人の仕事は介護職なので、ちょうど、みなみ会館で上映されてる音楽療法がテーマの『パーソナル・ソング』を観せてやろうと思ったのだが、時間が合わず急きょ予定を変更して、かねてから行きたいと思っていた居酒屋に行くことにした。

 

三条京阪で待ち合わせたのは午後三時で、居酒屋の開店である五時には早すぎる。そこで向かったのは寺町三条の商店街を上がった所にある『スマート珈琲』(昭和7年、1932年創業)。久しぶりに訪れたが、今も変わらず昔ながらの濃くのある味わいに心がなごみ会話も弾んだ。

 

その後、並びにある民俗楽器の店(コイズミ)でしばらく過ごし、五時前に川端三条通りから東山通りまでの中間地点の南側にある居酒屋『伏見』(昭和30年、1955年創業)に向かった。店構えはかなり古ぼけているのだが、開店前にすでに人が並んでいる。名物女将と思しき女性がアルバイトと一緒に出てきて、打ち水をした後に店内に客を案内した。中は使い込んだ二十席ほどのカウンターのみで、(二階には予約のみの座敷があるらしい)狭い厨房には職人が4人ほどみえる。すぐに満席になり、次々と混めは1時間で退席するようになっているようだが、2時間近く過ごさせてもらえた。新鮮な材料に舌鼓をうちながら会話に夢中になっていると、女将の「鱧の天ぷらは誰?返事しよし!」と叫ぶ声に気付き、私は思わず大声で「ハイ!」、店内に笑いが広がった。

 

勘定をすませたが、時間はまだ午後7時まえ。友人はむかし、私に連れて行ってもらったという三条寺町商店街を下がった所にある、バー『京都サンボア』(大正7年、1918年創業)に行こうと言いだした。すでに先代は亡くなっており、あの頃は先代の下で修行中だった息子も、白髪の親父になっていた。お決まりの極上のハイボールを注文したが、突き出しがピーナツからえびせんに変わっていて少し残念。あの頃はピーナツの皮は床に落とすのが礼儀で、その訳はその油分が掃き掃除のときに、床を輝かせるということだった。

 

 

今思えば、気心の知れた友人と過ごした三軒は、結果的に亡き師匠の姿を蘇らせる場所ばかり(驚)

 

学生のときからコーヒー専門店の師匠(独立まえの店長時代の師匠)の下で、アルバイトとして働いた身には『スマート珈琲』の味と店内の雰囲気は、当時の情景を心地よく思い出させてくれた。

 

居酒屋『伏見』は、女子のアルバイトが入ると、師匠はかならず『伏見』に連れていっていた。長年、なぜ男子は誘わなかったのだろうと思っていたのだが、昨日ふと「もしかすると、あの女将が若かった頃、その活き活きとした接客術を女子アルバイト達に学ばせていたのではないか・・・」と思ったのである。

 

そして、バーの『京都サンボア』は、学生アルバイト時代に師匠が男の独り遊び(せめて二人遊びかな)を教えてくれた、締めの店である。まず、河原町で好きな映画を観る。そして今でいうスーパー銭湯に行き汗と疲れを流し、四条河原町通りから一本筋道に入った裏寺通りにあるカウンター8席ほどの『杉屋』(今は亡き父が出て来た時に、ふたり切りでの最初で最後のお酒を飲み交わした店。今は廃業し通りの店並みも一変している。当然ながら店主も亡くなっているだろう。)という小料理屋に行って舌鼓を打った。ほろ酔い気分で、ぶらぶらと寺町通りを上がり、頑固職人肌の先代マスターの『サンボア』で、仕上げのハイボールを飲むという、男の綺麗な遊びを教わったのである。

 

何を基準に『老舗』と呼ぶのかは知らないが、若く活きの良い時代に怒鳴られながら修行した思い出は、知らず知らずのうちに、当時を彷彿させる場所を巡らせた。

 

人は真剣に愛ある学びをもらった親や師の思い出から、一生放れられないのかな・・・

 

 

  ※各店の創業年度はインターネットでの検索より 

 

 

 

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2015年

3月

26日

さくら情報

 


 宇治川の桜は、まだつぼみです。でも明日には咲き始めそうな暖かいお天気!



花はけなげですね~  かならず咲くときに咲く!そして人々を喜ばせ、生きる希望を与えてくれる。素晴らしいね~ 自然はいいね~ こんなことに感動するなんて歳とった?(笑)



前回までのブログに、たくさんコメントを頂いたな~  お返しをしたいけど・・・


今日はひとまずさくら情報でした(笑)





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2015年

3月

23日

天分は道具

 今年の初め、若い頃に修行していた店の五周年記念パーティーの模様が映ったDVDが、亡き師匠の奥さんから贈られてきた。

 

部屋を整理していたら、その古いビデオテープが出てきて、業者に頼んでダビングしてもらったとのことだった。

 

さっそく観せて頂いたのだが、なにしろ素人が撮影したもので画面がさかんに揺れ動き、半分ほどで船酔い状態になり(笑)しばらく断念していたのだが、残りを先日やっと観ることができたのだ。

 

画像に映る数々の場面は、ほとんど忘れ去っていたのだが、27年まえ(31歳)の私はやはり今の傾向性とほとんど変わらないことをしていて驚いた。司会進行、雑用、歌う人の為の演奏、そして自身のライブでは、ギターの弾き語りの他に各従業員の形態模写をして笑わせ、場を盛り上げている。

 

人前に出ることは緊張して苦手なはずなのだが、なぜか中学、高校生のころから歌、芝居などの機会を与えられると、下手でもやってしまう(笑)最近やっと気付いたのだが、私は目の前の人が喜んでいる姿が好きなのだな。

 

かといって、プロの歌手や役者になりたいと思ったことは一度もない。何故だろう?そのヒントは十数年まえに音楽療法に興味を持った辺りに答えがあるのではないかと思う。たぶん、身近なところでの人々との触れ合いが、私の生甲斐になっているのだ。

 

二月の後半に、これも27年前に能力開発プログラムの勉強会で知りあって、今も親交のある方の講演会に行って来た。会社勤めを辞め、好きな絵本の無店舗販売から始め、今まで多くの苦難を乗り越えて店を守っている女性だ。この講演で、最も心に残ったのは「絵本は道具です」という言葉である。つまり、絵本は親子のコミュニケーション手段として、各々の家庭環境でボロボロになるまで好きなように使い込めば、あるとき忘れたころに・・・(私の子育てはどうだっただろう・・・?)

 

今朝のことだが、ウォーキングの最中にその言葉の意味と私の好きなこと(音楽、コーヒー、料理、文章など)がリンクした。それは、「好きなことを道具にしよう」ということなのである。つまり、人間は其々の持つ天分を大事に胸の奥にしまって錆びつけるために生きているのではない、どんな些細な特技でも、どんどんコミュニケーションの手段として使い、人々に喜んでもらわなければいけないのではないか・・・

 

来年には還暦。引退のイメージが強いが、それは便宜上で世間が決めた基準だから私は生涯現役を貫く。ボランティアなのか職業なのか、その判断は私に与えられているラフスタイルが自ずと決めること、まずは人の笑顔を見続けよう・・・

 

 

次回は父と師匠が一度だけ出会った場面のことを書いてみたい(驚)  気が変わらなければ(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

3月

19日

いのちの話

 

 

ここ数年、「命が粗末に扱われている」という言葉をよく耳にする・・・

 

そこで、私に年齢の近い従姉妹たちの間で人気者だった、父のことをちょっと書いてみよう。

 

父は戦前には沖縄県の職員として、戦後は畜産県の宮崎で職員として大型家畜(牛、馬、豚)を診る獣医をしていた。私が戦前の様子は知る由もないし、誕生から幼ない頃までしか住んでなかった宮崎で仕事をする父の姿は、おぼろげにしか記憶がない。

 

諸事情が重なり、小3の私は両親の故郷である沖縄に引っ越すことになったのだが、日本復帰前の沖縄には多くのアメリカ軍人が駐留し、占領した広い敷地に住むその家族達が犬などのペットを多く飼っていた。ということで父はそれを当て込み?しばらく東京で小動物の治療を学び直した。宮崎市に隣接する田舎町では、まだ信号もないような生活であったが、沖縄では多くの大型アメ車や日本車が右側通行で走るなか、那覇市に隣接する当時の浦添村で父は開業を始めた。

 

しかし、五十歳まで給料取りとして働いていた人の良い父には、自営というものは厳しかったようだ。地元の人にお金が無いと言われれば治療費を貰えなかったり、アメリカ人には入院させた犬を置き去りにして本国に帰られたりもしたのだ(笑)

 

ところで、置き去りにされた犬はどうなったのか? けっきょく生涯飼うことになった。しかも2頭も(笑)

一頭はスピックという名のオスで交通事故で下半身複雑骨折だった。もう一頭はプリンセスという名のメスで皮膚病だった。

 

その後、幹線道路沿いにある浦添での借家は家賃が高く、那覇市で叔父の持ち物の家で開業したのだが、数年後には、そんな二頭の間に仔犬達が生まれ、知りあいに貰われていった。

 

ということは、もしかすると?その「命」たちは今も誰かの元で受け継がれているのかも知れないね・・・

 

ペットブームの現在の日本では、飼い切れなくなったりした犬や猫たちが、年間に何十万頭も殺処分されている。

 

そして、人々の間では、理解できない戦争や事件や自殺などで「命」が簡単に失われていく・・・

 

あ~ あかんあかん! 何だか書いてることが重くなってきたな・・・

 

 

末っ子の私は小学生の時代だけだが、家族の中でいちばん父の仕事ぶりを見たり手伝ったかもしれない・・・

 

今、あの頃の父の年齢を超え、人生は 『一期一会』 損得ではないよと学んだ気がしている。

 

 

  ※写真はメスのプリンセス=何と那覇市では屋根に作った小屋で飼っていた。(オスのスピックは一階の小屋で)

  常に屋根を一周してパトロールしてくれて防犯には最適?(笑)

  私が中学生の頃にプリンセスが部屋を覗いた瞬間である。

 

 

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2015年

3月

16日

息ぬき

 しばらくブログを更新してないな~

 

書きたいことは山ほどあるけど、書くと内容が重くなる気がして、どうも気がのらない・・・

 

 

半年ほど前に知ったのだが、ラジオから流れてくるウクレレと力みのない歌声・・・♪  ’ つじ あやの ’という名の京都出身のミュージシャンである。奏でる楽器も歌声も出来上がる詞も曲も、そしてブログの内容も、なんだか「ほんわか」する。

 

人は年齢を重ねたから優しくなり、人々を包み込めるわけではないようだな。若い時から好きなことを、背伸びをし過ぎず『今できることを具体的にする』の繰り返しが、人々にしんどくならずに生きるヒントを与えてくれる気がする・・・

 

春のベランダで、ウクレレじゃないけれど、持っているギタレレを写してみた♪

 

 

 

 

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2015年

3月

01日

スタンド・バイ・ミー

 ベン・E・キングが唄う『stand by me』は長年よく耳にしてきた・・・♪

 

午前10時の映画祭(友人のブログで知ったのだが)という劇場の企画で、旧名作の『スタンド・バイ・ミー』を初めて観てきた。この作品の日本封切りは1987年ということなので、私はちょうど30歳の頃と思われる。修行からさらに飛躍したいと、いちばん成功欲望の旺盛な時代で、たぶんこの手の映画など目に入らなかったのかな思う。(能力開発プログラムを取り入れ、異業種の方々と盛んに勉強会を始めた頃かな?)

 

さて映画だが、やはり男の子の世界を切なく懐かしく追憶させてくれた作品だった。

 

写真は誕生し小3の夏まで過ごした宮崎県国富町、近所の幼馴染みとの写真だ。幼い私には豊かな自然に囲まれ、末っ子で家族6人に囲まれ、友だちに囲まれ、いちばん幸せな時代だったかも知れない。(実際には家庭崩壊の危機があったのだが・・・)

 

オレゴン州の小さな町に住む映画の4人の少年たちは、12歳の小学6年生という思春期への入り口という設定。 その歳の私は沖縄に引っ越して4年目で、浦添村(今は浦添市)から2年後に那覇市に移り住んでいた。まだ琉球政府というアメリカ統治下で、那覇市の家は戦前には父の実家があった場所。戦後の焼け野が原に建てた持ち主である叔父の赤瓦の古い借家に、獣医の父は浦添に引き続き中央家畜病院と看板だけはりっぱに掲げていたが、さっぱり儲かっていなかった(笑)

 

話が逸れた! 父のユニークな人生はまたの機会に(笑) 

 

小学、中学、高校と思春期までの男子の友人は、その場面ばめんでしだいに変わっていく。いちばん影響を受けた7歳上の兄を含め、個性豊かな一人ひとりと過ごした日々・・・ その数々の場面をここに挙げていくわけにもいかないが、その眩しい時間は確実に私に豊かな心を育ててくれた。 

 

そう! stand by me ♪~

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

2月

11日

タイムスリップ

 一昨日、このまえ紹介した『パーソナル・ソング』を大阪は十三(じゅうそう)にある第七芸術劇場で鑑賞してきた。

 

梅田から淀川を挟んで北西あたりにある十三駅は、阪急電車始発の梅田駅から二駅目で京都線、宝塚線、神戸線が分岐する。そして下車すると下町の雰囲気を醸し出した、ゴチャゴチャした街のイメージがある。

 

映画館のホームページから調べた道案内どおりに到着すると、館内はいっぺんに昭和にタイムスリップである。スタッフの三人はまるでフォークブーム時代の若者のような出で立ち、劇場は木作りの壁やえんじ色のカーテンの奥に銀幕があって、もうそれは昭和である。(ただ、100席ほどの座席だけは今風にゆったりとしていたし、あの当時にどこの映画館でも感じたタバコ臭ささはなかった。)

 

上映までのしばらくの間、京都に出て来た頃を思い出していた。住まいは学生寮で左京区の一乗寺にあった。そこは学生の街で商店街には京一会館という二番館(三番館?)があった。(1年で寮を出てからは、京一会館から目と鼻の先のアパートに10年ほど住み、たしか映画館の廃業も見とどけた。間もなくアパートも潰されることになり引っ越したが、家庭をもつことになる平成はもうすぐそこに迫っていた・・・)名画もロマンポルノも上映するごちゃ混ぜ館だったが、いちばん印象に残っているのは健さん主演の『幸せの黄色いハンカチ』である。ま~そんなことを思い出しながら上映を待っていたが、周りを見渡しても客は私を含めて四人!(驚)メンズデー(1100円)とはいえ平日の夕方だし、巨額予算のメジャー作品でないとこんなもんかと妙に納得をした。

 

さて映画だが、いきなり引き込まれていった。認知症やアルツハイマーで無表情な老人や中年のひとたちが、好きな音楽に触れた瞬間に表情や動きが盛んになる。ドキュメンタリーなのに、あの表現力は役者じゃないのか?と思うほど豊かになるのは、さすがあらゆる音楽が融合した多民族国家のアメリカである。(シャイな日本人では、とてもあんな風に感情が表にでないだろうな~)

 

映像を観ながら何度も目頭が熱くなった。それは10年前に亡くなった母と6年前に亡くなった父に重なったから・・・

 

亡くなる前に私なりの音楽療法をした(そのことは其々エッセイ集”心の時代に思うこと”に書き残した。)つもりだが、やはりどちらも看取れなかったことには後悔が残る。そして、私に人前で音楽をする楽しさを教えてくれた闘病中の友人のことも、度々脳裏をよぎった。さらに、私はどんな死を迎えたいのか?自宅で?施設で?病院で?そして、医薬がビジネスとなった現代医療において「音楽療法を主の治療にして下さい。薬はその補助に使って下さい。」と胸を張って言えるだろうか・・・

 

映画が終わると、十三駅周辺をぶらつき一杯飲み屋を探した。ガード下や路地裏に様々な飲み屋が軒を連ねている。結局は映画館の近くに戻り、斜め向かいの立ち飲み居酒屋に入った。心地よくなってきた頃に、となりのおっちゃんが話しかけて来た。酒飲みは、話を聴いてくれそうな人間を見付ける嗅覚があるのか(笑)ひとしきり(けっこう面白い人生の)話を聴いてあげ、おあいそすると、そこそこ飲食したのに何と1500円ほど!!!安い!さすが食の都の大阪!さすが十三!さすが立ち飲み!

 

昭和の薫りの残る人情味豊かな街を堪能し、また雑踏の中を帰路についた・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

2月

08日

天職

 前回のブログの内容後に、また不思議な追加の現象が起こった。

 

図書館で借りた本の中の一冊を読み進めているうちに、それは【コーリング(calling)・・・呼びかけ=天職】について詳しく書かれた内容であったのだ!!(驚)

 

このように繋がりを持って、次々と自分の内面に呼び掛けてくる現象を無視するわけにはいかないと思う。

 

本のタイトルは『人生に必要な荷物いらない荷物②』(写真)である。この本の一作目は京都市北区で廃業し、17年前に娘が小学校に入学するのを機に、妻の実家のある宇治市で職を得て(これは転職(笑))働き出した頃に本屋で目に止まり、購入して読んだ本なので、今回は図書館で見つけて「二作目があったんや~」と気軽に手にして読み進めていたのだ。

 

一作目の内容は読み終えた後に、すでに手放しているので(本好きな沖縄の友人に贈ったのだ、彼のことはまた書いてみたい。)忘れてしまった。二作目の巻末にある別本紹介のページに「生きることを「旅」になぞらえ、仕事や家庭の問題、自分自身のありかたを「荷物」にたとえ、あすを模索する書。人生の午後に差しかかった人、自分の場所を見つけたい人、自由への道を探している人・・・。人生を、ほんの少しだけ振り返ってみませんか?」と書かれている。当時は四十代に入り、人生の午後に差しかかった私にはピッタリの本だったと思う。

 

さて、二作目を読み終えて本の内容を長々と書いてもしかたがない。その中でも私なりのポイントは『天職とは生活の糧を稼ぐ主な方法ではないかもしれないが、自分のアイデンティティの中核である「人生のプロジェクト」だということだ。』、『”第三の耳”を鍛える』、『・愛を与え、愛を受け取っただろうか? ・自分はなりうるかぎりの自分になっただろうか? ・この地球を前よりもすこしでもよい場所にすることができただろうか? エリザベス・キューブラ=ロス』と理解した。

 

しかし、解ったような解らんような・・・(笑)

 

何はともあれ、前述したように『繋がりを持って、次々と自分の内面に呼び掛けてくる現象に丁寧に応えていくこと』が大切なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

1月

25日

貢献するということ

 昨日の午後のこと、妻の親友が世話人をしているサロンに行って来た。

 

月に1回、同じ宇治市の別の地域で、家に籠りがちな五十代から上の『おっさん』世代のために、フォークを中心に活動するバンドを集会所に招いて、コンサートやおしゃべりの場を提供している。親しんだ曲を聴き歌い、アルコール等も少々入り上機嫌のおじさん達は、日頃は苦虫を噛んだような顔で家でゴロゴロして、邪魔者扱いされているのだろうか?(分かる!わかる!(笑))

 

今回は2月1日に開催する『フォーエバー・フォーク』に、とりを務めるバンド(スリーフィンガー)が出るということで私も初めて足を運んでみた。まる1年を経過したこのサロンのようだが、妻の親友はホントに中高年の男性の心理をよく掴み、このようなサロンを始め、そして継続させていると感心した。私も市のボランティア登録をしているが、継続できているこれといったことがない。まだ、現役世代なのでしかたないともいえるが、継続して『貢献』や『奉仕』することについて考えさせられた日になった。

 

ウォーキングついでの帰り道に用を足したくなったので、ちょうど通り道にあるフォーエバー・フォークの会場になる、生涯学習センターに立ち寄った。そこで、思わぬチラシ(掲載写真)を発見したのである。

 

音楽療法研究会に所属して10年になるが、この事に限らずその人に必要なものは、かならず出逢いが用意されているものだ。喜んで行動しているとき、次々と繋がりを感じる現象を、たしか『コーリング』といったかな? 

ぜひ鑑賞してみようと思う。(京都では『みなみ会館で上映予定のようだ)

 

 

 

 

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2015年

1月

16日

もりお君

大学受験生は明日からセンター試験だ。

 

今年は2015年である。私が高校を卒業した年が1975年であるから、何と40年もの歳月が流れたのだ・・・

 

ふと、9月に録画して観た映画のことを思い出し、再度その録画を映し出しながらこの文章を書いている。その映画のタイトルは『旅立ちの島唄~15の春』

 

沖縄本島から東へ350㎞ほど離れた所に大東島がある。その島のひとつ南大東島の話だが、高校のない大東島では中学を卒業して高校に進学する子は那覇などの本島の高校に通う。とは言え、とても大東島から通える距離ではないから、親元を離れ本島の身寄りに世話になるか独り住まいとなる。主人公の女の子も家族や友人知人との別れで思春期の心を揺れ動かす。

 

この映画を観て思い出していたのだが、高校3年生の時のクラスメイトに大東島出身のもりお君がいた。彼は高校の近くにアパートを借り、独り住まいをしていた。3年10組は他のクラスが羨むほどの仲の良いクラスで、よく皆が集まり学校内外で親交を深めていった。おのずともりお君のアパートは、何かにつけ皆の溜まり場となり、時には泊まりがけで色々な話の花を咲かせた。

 

映画では後半に主人公が家族や島の住民の前で『アバヨーイ』という島唄で唄三線を奏でる。エンディングではBEGINの『春にゴンドラ』が流れ、那覇に向け旅立つ主人公達を乗せた船が出港する・・・

 

もりお君にもそんな別れがあったのだろうな~  何も知らず親元で暖々と過ごす我々は、もりお君の気持ちも考えずお邪魔虫を重ねていたな~ 40年間逢ってないけど来年は還暦の年だ。同窓会やクラス会もあるだろうから「もりお~」に聞いてみよう・・・

 

 

 

 

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2015年

1月

03日

雪国への旅?

 明けましておめでとうございます。

 

「今年は北国へ旅をしております」と言いたいところだが、

この三が日、京都の南部に位置する宇治市でも、かなりの雪が降っている。

 

京都市の左京区や北区に住んでいた頃には、かなりの雪を経験したが、この宇治市に住んでの17年間に、根雪にさらに雪が降り積もる経験をしたのは初めてだ。


子供たちが小さいうちなら、外で大はしゃぎしたであろうが、今はどこか良いシャッタースポットはないかと、高なる胸で?南国育ちの私は極寒の外を歩き回る。


おかげで、二日は朝7時から寒風の吹きぬける宇治橋の上で、日の出を45分間待ち、高性能カメラを抱える写真愛好家に混ざり、小さなデジカメの私もシャッターを切った(笑)


地球温暖化になると、逆にこんな現象も起こるという。人も車も少ないようで経済的には大打撃かも知れない。街に活気があるのは嬉しいものだが、このような新年を迎え、浮かれる気持ちを雪(自然)に見詰め直させられているのだろうか・・・



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2014年

12月

30日

暮れゆく

 今年の目標は『彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)』・・・ひどく苦心して作品をつくることだった。

 

が・・・ ブログや記憶を振り返っても一年という月日では何も納得いくものが出来ていない。

 

仕事、ライフワーク、家庭、運動、健康、etcと何もかもがやりかけだ。

 

人生というものは、便宜上の時、日、月、年で動いてるものではない。

これだというものを、生涯をかけて創り上げていくことが大事なのだ。

 

今年も人生で関わった方々にも新たな門出があった。就職した人、廃業された人、起業された人、出産された人、逝かれた人・・・

 

喜怒哀楽はその人その人に様々な形で訪れる。自分には関係ないような事でも、実は潜在意識で繋がっているということは、過去のブログでも触れたことがある。見えないものを視て、聞こえないものを聴き、どんな些細なことでも丁寧な日々を心掛けて行きたいものだ。

 

一日早いけど、今年もありがとうございました。

 

 

 

 

 

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2014年

12月

25日

CD作り

 10月17日付のブログで紹介したが、40年前の高校3年生の文化祭で、クラスメイト達と教室をライブハウスの模擬店にして歌った。その時の写真が古いアルバムに数枚あるので、今年その中の一枚をジャケットにして自家製CDを作ってみた。

 

ギターを弾いているのは、今回の曲『君の風が奏でる』のモデルの友人で、立って歌っているのが私(豊かな髪だな~ 面影ないな~(笑))である。

 

もう1曲は、生まれ故郷の宮崎とその後に育った沖縄をイメージして作った曲だ。

 

おっちゃんバンド?(たしかに私はおっちゃんだが(笑))やソロで懐かしい曲を歌うのは楽しい。しかし、年齢は重ねても新しい曲やオリジナル曲に挑戦して、ソロやバンド仲間と豊かな人生をイメージした心温まる曲や語りを届けられたらな~と思う。  

 

クリスマスということで、告白するが・・・ 友サンタは身近な『友だちのようなサンタ』でありたいのである(笑)

 

今は自己満足でしかないが、今後もう少し録音状態を良くして、もし物好きで(笑)聴いてみたい方がおられたら、ライブでもCDでもお届けできたらな・・・    

 

メリー クリスマス!!  

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2014年

12月

22日

継続は力なり

 10年目の宇治市輝き支援事業としてのフォーエバーフォークイン宇治だが、今回の12回目(9年目からは、出演バンドが多く年2回開催)で、いよいよ来年2月1日(日)で最終回を迎える。我々のバンドは、11回目の今年10月開催に昨年に続き二度目の出演をしたので、同じ年度内の今回はスタッフ側に回ことになるが、初回から携ってきたバンドや関係者はどのような思いだろう。

 

夢や目標は実現したときからが重要だ。認知され、信頼され、惜しまれ続けるには、弛まない努力と共に『継続』が必要だ。それが『力』となる。

 

お時間のある方は 宇治へお越しや~す!!

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2014年

12月

04日

出会いよりも出逢い

 人には思いがけな出逢いで人生が大きく変わることがある。(思いがけないのではなく、常に潜在意識の中で求めているから、出逢いに気付くと思うのだが・・・)

 

 それはもちろん人と人との出逢いが最高ではあるが、その作品(書物、音楽、美術、工芸、演芸、作物やそれを使った料理や菓子etc)も出逢いであるし、動物、植物、海、川、山、空などの自然とふれあうのも出逢いと言えるだろう。

 

 さて、今回の出逢いは図書館で何気にこちらに「読め!」と呼び掛けてきた?(笑)、『人間の賞味期限』という木村政雄氏の十年以上まえの著書である。縁あって吉本興業に入社して、漫才界のレジェンドとして語り継がれている『やすし、きよし』に出逢い、マネージャーとして関わったり、漫才ブームの火つけ役や東京進出で吉本をメジャーにした。ブームが下火になると、関西で人気の落ちた新喜劇の構造改革に携わり、会社を救い常務にまで登りつめたが、56歳のときに自分と会社の関係の鮮度が落ちたと気付き退職を決め、自分の賞味期限を延ばす新たな人生を歩きだした人物である。

 

 読み終わり感じることは、定年という賞味期限は会社や世間が作り出したものにすぎない。人生という賞味期限は自分でいくらでも延ばしていけるということ。その為には過去に携ってきた仕事や人生経験をじっくり振り返り、その傾向性から以後の人生で、その道のスペシャリストを目指せるということを再確認できた。

 

  やはり、その道のプロという方々は凄い!うかうかしていると飽きられるという緊張感が新たなものを生み出す。その為にも『出会いよりも出逢い』を心掛けよう。目の前に困難なことが起こっているようにみえても、常に潜在意識に良いもの、豊かなもの、美しいものを蓄積して表現していくことが、素晴らしい『出逢い』に繋がる。

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2014年

11月

16日

原作と映画

『虹の岬の喫茶店』という森沢明夫氏の小説を読んだ。

 

いま映画館で公開中の『ふしぎな岬の物語』の原作で、特に吉永小百合ファンではないのだが、美味しいコーヒーと海が出てくるというので観たいと思った。2週間ほど前のことだが、本屋に行くと、その原作が文庫本で並んでいたので、それなら「読んでから、映画にしようかな?」ということで読むことになった。

 

作者は私より一回り以上も年下ではあるが、なかなか私の心を鷲掴みする術を持っている(笑) コーヒーと海だけでなく文中の各章を素敵な音楽仕立てのストーリーにしているのが心憎い!小説やラジオというのは映像が無い分、脳の細胞が活性化して想像力が旺盛になる。自分自身で文字や言葉から、その場の情景を描くことは、とても素敵なことと思うのである。

 

しかし、それだけに原作を基につくられた映画やテレビ番組を観るのは怖いものだ。制作会社や監督、スタッフの作品に対するそれぞれの受け取り方や、計算が映り出されてしまうから・・・ 

 

人は同じものを見(観)ても、聞(聴)いても感じかたが其々に違う。受け取る人の歩んできた道に沿って、物事を理解したり判断してしまうのだ。つまり、そこに勝手な共感や批判が生じるのであろう・・・

 

だから、逆に人目を気にして仕事をしたり生きることは、平均という鋳型にはめ込まれ個性が失われて、辛い生き方になりがちになるのではないかな・・・? 人それぞれが自分の人生という作品を創れたらいいな~  人は根底では誰しも繋がっているのだから、きっとそのほうが、批判より共感を呼ぶと思えるのだ。

 

コーヒーと海と音楽を作品にするなんて!! 私には共感だらけ!!!(笑)

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2014年

11月

09日

マンガもバカにできない!?

 いま社会人など多くの人々に熱心に読まれている『7つの習慣』という自己啓発の本がある。夏に入る頃だったか?そのマンガ版が書店に並んでいたので、社会人になった娘に読ますために買った。ところが、人間どんなに親や周囲が薦めても、いま本人が必要としていなければ受け入れられない。ということで、薦めた本人が必要としていたみたいで(笑)私が読むことになった。

 

マンガ版ということで、私の尊敬する経営者の友人には(彼は社内教育に活用しているようだ)怒られるかも知れないが、さすがに深い内容の本がモデルになったマンガで、あっという間に読み終え、今も重要な部分の反復をしている。

 

深い内容のマンガで思いだす作品がある。私の二十代前半のことだが、『浮浪雲』(はぐれぐも)というジョージ秋山氏の作品だ。

 

 35年以上むかしの話。沖縄での勉強しない2年の浪人生活に蹴りをつけ、京都での学生生活が2年目になり、3つ目のアルバイト先が左京区にある珈琲専門店であった。そこは超繁盛店で当時のコーヒー一杯の価格が230円だったと記憶しているが、営業時間は7:00~23:00で、40席にも満たない広さに1日の来店客数が平日でも400人を超え、売上が十数万円であった。当然、入りたての私は今で言う「使えない男」でドジばかりであったが、その店長(以後は師匠と書く)は九州の博多から出て来た苦労人、人情深く時には飲みに連れだし、知らず知らずに鍛えられていった。それから半年ほど経った頃に2号店を西陣あたりに出すことになり、師匠の部下が2号店(以後は西店)の店長として送られることになり、その片腕として私も転勤となった。

 

 開店当日は雨だった。なんと!バイクで通勤途中の店長が事故で足を骨折!!  以後、私の人生はどんどん変化していくのだった・・・(小説ではないよ(笑))

 

急きょ本店から他のアルバイトを手配し、早番、遅番、通し等と私ら学生アルバイト二人が店を回すことになった。ところが間もなく、一人が胃潰瘍で戦線離脱に(ゲッ!) 当然、私がフル稼働になり本店からレギュラーが時々応援しながら、現地で主になるアルバイト男子を採用することになった。彼は近くの仏教系大学に通う3歳年下の学生だった。アルバイトの身で仕事漬けの日々、犠牲にするものも多く心身が疲れ気味の私に彼は「これ読んでみて」と、灰谷健次郎作の『兎の眼』を貸してくれた。その後は『浮浪雲』を貸してくれ、音楽ではジャズピアニストのキース・ジャレットを聴かせてくれたのだ・・・

 

その当時は『癒し』なんて言葉は流行ってなかったが、気の合う年下の友人ができ、今まで自分の中になかった作品に触れ、(二人して兎の眼のモデルとなった菩薩像の眼を奈良の西大寺に拝みにいったこともある)私の心身は回復していった。ところが、ケガから復帰した店長と彼は反りが合わず店を辞めて行った(私と彼との親交は現在も続いている)。その後、なぜか店長は本店に戻ることになり、代わりに本店から馴染みのアルバイト二人と、きな臭いことにコーヒー会社を止め修行の為にやってきた、経営者の息子が加わり暫く過ごした。(そういえば、この二十代後半の息子には司馬遼太郎の『竜馬が行く』を教わったな)そして、我々3人は西店をその息子に任せ本店に復帰し、店は会社組織になった。

 

ところが、やはり師匠は自分が超繁盛店に育てた店を経営者親子に乗っ取られると察知し、何と我々を取り込み独立に動き出すのである。 ドラマみたい!! 長くなるので、その後は次の機会に・・・

 

西店で出会った友人とは、その後も親交を深めていったが、今は九州で寺を守っている。『浮浪雲』は二十代の私のバイブルとなり単庫本を40号くらいまで揃えたが、結婚を機に整理した。今もビックコミックオリジナルでロングシリーズとなっているようだが、読むことはほとんどない。幸い京都にはマンガミュージアムがあるので、『浮浪雲』に会いたくなったら、いつでも再会できる・・・

 

今も雲を眺めては空想を広げるのが好きなのは、こんな経験があるからなのかな~(笑)

 

 

 

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2014年

11月

02日

秋の実り

 昨日はバンドで出演予定の野外ライブが、雨天の予報で(前日に早々と)中止になった。

 

この所、ライブをよくこなし、少々乗っていたので非常に残念である。実は私の舞台での容姿は、ライブを観た友人や同僚に言わせると、憧れの加山雄三には程遠く、月亭可朝にそっくりと言われた(泣笑) 今回は観客を盛り上げるための選曲と、どうやら少し派手目のアロハというか、かりゆしウエアーというか、そのようシャツを着て、草色のハットで舞台に上ったのが原因だろう(お笑い系かいな) 実は、しっとりとジャズやバラードも歌えるんですよ~(ホンマに)

 

さて、秋は色々なイベントがあちらこちらで行われている。今日はライブが中止になり時間が空いたので、一番手ごろな地元開催のスタンプラリーに、午後から雨の合間をぬって行ってきた。参加した健脚コースは宇治の名所を22ポイント約13.5㎞で行われ(因みに基本コースは10ポイント約4.5㎞)たが、遅めの出発で時間が足りないので、5ポイントを後日に回した。今回の中で最も奥にあるのが、白川という地域にある白山神社なのだか、それよりも通り道にあった小さな美術館が気になって、ポイントでのスタンプも早々に済ませ、道端で旬の味覚を買い求め、美術館に足を運んだ。

 

それは、水原房次朗 蔵美術館と名乗り、白川で古くから製茶業を営んでいた藤川市左衛門という人物の、300年前の蔵を美術館にしたものだった。その小さな美術館に入ったとたん、身も心もとろけるような温かな空気に酔ってしまた。絵の温もり、照明の温もり、長い年月を経た蔵の美術館の温もり・・・ そして接待する今は亡き画家の息子、娘の温もり・・・

 

身体は疲労していたが、『秋の実り』というか、『歴史の実り』というか、これが次世代に引き継がれる『人生の実り』というものに触れたせいか、心がポカポカとして帰りの足どりは軽かった・・・

 

 

 

 

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2014年

10月

22日

憧れ

 人は人生を歩んでいくために、指針となる人がいると生きやすいと思う。前回とり上げた絵本作家や同世代の(もっと若い世代も含め)色々な分野で自分のライフワークに取り組んでいる人々のことを知ると、生きるためのモチベーションが湧く。

 

また、さらに年上で自分の興味にリンクする人が、懸命にそして楽しく自由に世の中に貢献する姿は、自分の生き方を改めて見詰めさせ正してくれる。

 

先日、録画しておいた『SONGS』と言う番組を観た。ことし喜寿(77歳)になった加山雄三氏の特集である。国民的スターで、私の年齢より上の人はファンも多いだろう。私も7歳年上の兄と少年の頃、映画の若大将シリーズを観た覚えがあるし、『君といつまでも』『お嫁においで』やエレキギターを弾きながら歌う曲には心を躍らせた。(その姿を観て兄はギターを始めたし、その兄を見て私はギターを始めた)その後、進学で京都にでてきてからの二十代から今日までに3~4回は彼の京都や大阪でのライブに足を運んだ。その上CD、ミュージックビデオ、楽譜、著書もそれなりに揃えた時期がある。(因みに、全国ツアーは今回で終了し、80歳から自分で設計した、すべて自然エネルギーで動くエコシップを造船し、世界の七つの海を制覇するそうだ(驚!!))

 

ここで、彼の波乱万丈な人生を長々と紹介してもしょうがない。ただ、彼が歌う『海その愛』や『MYWAY』には感動する。歌や演奏には(どんな分野でも、人が創作するものはすべて)その人の人生が在りのままにでてしまう・・・ 先日のブログに高校生で人生の意味もわからず、みんなの前でMYWAYを歌ったことを紹介したが、今は逆にこの年齢でもMYWAYは恥ずかしい。還暦になっても同じだろう。私が喜寿を迎えた時、自身をもって歌えるだろうか?そしてバンド仲間は喜んで演奏してくれるだろうか?家族や友人は聴いてくれるだろうか? 残り20年ほどで答えがでる・・・  


生かされていれば だが(笑)

 

 

 

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2014年

10月

19日

仕事愛

ブーーー! という開催の合図と共に着席したのは、絵本作家の講演会。司会が講演者のプロフィールを紹介している間に会場を見渡すと、9割は埋まった席に、こどもが4割はいただろうか「エぇ~ こんなんで講演になるのかな~?」・・・

 

講演者が舞台に現れると、そのことがまったく無用の心配であることがわかった。すぐに、こどもの心を掴む語り口で、大人はこどもの頃を思い出しながら、ついでに笑いを思い出させてもらっているような状態だった。

 

宮西達也という人物も作品もまったく知らず、講演会に参加したのは何故だろう・・・?

 

もう25年以上もまえのこと。珈琲専門店で修業中に、ある勉強会でリンクでも紹介している『えほん館』の店主とスタッフにであった。その後、店の経営を始めたと同時にユニークなディスプレイにもなるので、おすすめの絵本を定期購読したのだ。明くる年には長女が誕生し、成長と共にその絵本が活躍した。また、保育園を通しての絵本やキンダーブックやおひさまという絵本雑誌も娘の心を捉えたと思うのである。

 

店に時間をとられ、子育ての大半は妻まかせだったが、おひさまの中のファンファンファーマシーという作品だったかな? 娘は3歳くらいだったか?読み聞かせをしている時、登場人物の父親がその娘に「のびのびせ~ のびのびせ~」と言う場面があった。私は節をつけて「のびのびせ~♪ のびのびせ~♪」と歌いながら読んでやると、とても喜び何度もリクエストをしてきたものである。その後、中学生になった娘にその光景を尋ねると、良く覚えていて驚いたものだ。(思うようにいかない自営の日々の中で、ほんとは自分自身が癒されていた気がする・・・)


 

さて、その娘もことし社会人になった。父親に対してはうっとうしいことが多いようである・・・(笑)

 

宮西氏の講演の後半のお話の中で。愚痴ってつまらなそうに生きるのではなく、人生や仕事を楽しんで下さい。そして子供が「あんな仕事をしよう!」「あんな大人になろう!」という夢を抱ける大人になって下さいと語っていた。12月に58歳になる氏は偶然にも私と同年齢である。作品創りやテレビの仕事、そして今後も全国や世界を飛び回って、絵本の読み聞かせの推進を広めていくとのこと・・・

 

 

 

 

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2014年

10月

17日

原点

 昨夜は会社の秋フェスティバルでライブをしてきた。このところライブづいていることもあって、申し込んでみたものの社員外のメンバーによるバンドはだめ! ということで、無謀にもソロでやることにした。今年で3回目となるが、蓋を開けてみると二組だけの申し込みで、私はトリを務めることになった(驚)

 

当日は屋台が出て、会社のマスコットガールや住む街のゆるキャラも招き、社員の家族も参加してそれなりに盛大に行われた。宴の中盤のメインイベントと言われている(ほんまかいな?)ライブの一番手は、若者4人組みでスピッツやモンゴル800の曲で盛り上がった。さて次は私の番!緊張はしていたものの、そこは無駄に年齢は重ねていないつもり?? アコースティックギター1本ではパワー負けするので、作戦を練っていた(笑)1曲目は永渕剛の『乾杯』を選び、40代以上の社員や家族の琴線に触れるように合唱してもらった。2曲目はBEGINの『かりゆしの夜』で盛り上げるために、数日前の打ち合わせで、先のバンドのドラマーに[ドラムを叩いて]とお願いし、リハでは他のメンバーや司会担当者に掛け声や踊りをお願いしてもらっていたところ、本番の歌の中盤では気のいいヤンチャな若者も舞台に上がり盛り上げてくれた(感謝!)やはり、音楽や若者と接すると細胞が活性化する(喜び!)

 

私のライブ活動の原点は高校1年生のときだ。もう40年以上も前の事で、はっきりした情景は思い出せないが、ある日の教室で放送部のクラスメイトとギターの弾き語りで遊んだ。彼は中学からロックバンドを組んでいて、母親は音楽教師というセンス抜群の男だった。その彼が私のポピュラー系の歌を聴いてから、高校3年間、私がバレーボール部なのに、何かにつけ歌える機会があると誘ってくるようになった。教室、音楽室、放送室、キャンプファイヤー、文化祭、彼のバンド、etc・・・

 

そんなこんなで、当時は学年600人ほど全校で1800人ほど、そして教職員の前で、ふたりして弾き語り(しかも、高校生でマイ・ウェイも披露!今思えば恥ずかしい!)をした経験があるので、その後のライブでは「俺は2000人の前で歌ったのだ!」(少し人数を誇張して(笑))と言い聞かせて舞台に立ち、緊張を和らげているのだ。

 

ということで、還暦も近くなったのにライブの機会があると、あの甘い思い出が背中を押してしまう(笑)

 

そんな親友はいま闘病中である・・・ 昨年、彼を思い歌を作った。この歌を皆さんの前で披露できる実力がつけばよいのだが・・・と、いつまでも甘い青春時代の夢をおじさんは追う、そんな秋である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年

10月

14日

魂の叫び

 数日まえのこと。借りていた本を返しに、住んでいる街の文化センター内の図書館に行くと、隣の建物にあるホールに行列ができている。気になりセンター事務所前のチラシ(←左の)を観ると、新聞屋さんが前売り価格で観られる券をくれてた映画だった。

 

図書館に本を返しはしたが、どうしても映画のことが気になる。開演時間も丁度よいので、このところ「目の前に訪れた気になる事は掴んでみる!」を心掛けている私は、割引券はないが(涙)それでも封切り館より500円も安いので(嬉)「観て帰る」と妻に電話した。すると、映画通の妻は「その映画は観たあとに、かなり落ち込むらしいで」と脅したのだった(油汗)

 

座席に着き開演までチラシに目をやると、ステーブ・マックィーン監督作とある。あの、アクションスターのマックィーンが(むかし、主演の大脱走やパピョンetcを観た)撮ったのだという認識で映画は始まったのだった・・・

 

チラシの裏のストーリーには『1841年、ニューヨーク。家族と幸せな日々を送っていたバイオリン奏者ソロモンは、ある日突然誘拐され、奴隷にされる。彼を待ち受けていたのは、狂信的な思想を持つエップスら白人による目を疑うような差別、虐待、そして”人間の尊厳”を失った多数の奴隷たちだった。妻や子供たちと再び会うために彼が生き抜いた11年8ヶ月と26日間とは・・・』と書かれた真実に基づいた内容である。

 

奴隷たちが綿花を摘みながら、そして仲間が過酷な労働で死んだあとに、死体を穴の中に埋めながら唄うゴスペルは、聴く者の魂の奥に問いかけてくる・・・

 

翌日、天気が良ければ、京都円山公園音楽堂で行われる『カントリードリーム』という白人音楽のカントリーを聴きに出かけるはずだったのだが、陽気な気持ちが失せてしまって別の行動をとったのだった・・・

 

因みに、この映画のスティーブ・マックィーン監督は、あのアクションスターの生きた時代とは、どう考えてもかけ離れている。インターネットで調べたら、”恐れ知らずの映画作家”と称される、まだ四十代の同姓同名の黒人監督だった。

 

何と無知!!!

 

 

 

 

 

 

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2014年

10月

07日

新たに生まれるということ

 今日、またひとつ年齢を重ねた。五十歳を過ぎてから、一年一年と歳がいくに連れ、何だか老いに対しての嫌な思いが拭えなかった。しかし、今年は仕事に加えボランティアではあるが、個人やバンドでの音楽活動のお陰で練習やら本番やら、その為の体力作りで忙しく過ぎ、いつのまにか58歳を迎えてしまった。この先にも会社のフェスティバルや野外でのライブをする予定だ。

 

 

学生アルバイトで始めた飲食の仕事だが、40歳までは修行を含め20年間が自営時代と捉えられる。そして、その後の約20年間が(実際はまだ18年間)調理師、管理職、部署移動を含めサラリーマン時代と捉えられる。自営にしてもサラリーマンにしてもコツコツと30年、40年・・・と歩んで来た人からすると「何と中途半端な!」と言われても反論できない。

 

日本の男性の平均寿命が遂に80歳代になった。残りの20年余りの人生を、定年という世間的な区切りで、とぼとぼと邪魔者扱いされながら生きるわけにはいかない(冷汗) そう! これからが人生総決算なのだよ。  負けないよ!自分にね(笑) 命ある限り、朝目覚めたら新しい自分なのだから・・・

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2014年

9月

21日

いまを生きる 2

少し前のこと、何気なくラジオをつけると、ある女性が熊野古道やサンチャゴの巡礼道を歩いた話をしていた。けっこう歩くことの好きな私は(H19年4月に、自作の『心の時代に思うこと第5号』でシャーリー・マクレーンのカミーノを読んで取り上げた)すぐに聴き入り、名前と著書を控えた。

 

話の内容でとくに共感できたのは、歩くことは瞑想に通じて最初は過去や未来のことの考えが堂々巡りに現れる。しかし、身体が疲労しそんな事がどうでもよくなったとき、石ころが分厚い靴底を通して感じられる。女性は「歩くことは感じること」と表現していたが、私なりに解釈すると、心の時代に思うことでは「歩くということは、ひょっとすると地球のエネルギーを足裏からしっかり受け止め、さらに宇宙からのメッセージを五感で受け止めることではないだろうか」と書いている。

 

女性の名前は福元ひろこ、著書は『歩く旅の本』

 

いま、リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』という本を読んでいるが、やはり共通した捉え方が書かれている。大まかな内容は、誰にでも過去の後悔や未来への不安を感じているが、病的になっている人は思考が優先し、その感情にのめり込こむ。楽天的なひとはそういう自分を一歩下がって「あ~またやっている」と捉え軌道修正することができると・・・

 

 さて、25年ほど前だったか『いまを生きる』というロビン・ウイリアムス主演の映画を観て感動し、その後に店(廃業)を出すときに、そこから題名にもなったセリフを頂いて、店名に使わせてもらった。彼の主演映画にはいつでも心をほのぼのとさせてもらい、私もファンのひとりだったが、この夏に自ら命を絶った。大きなショックを受けたが、いま思えば彼にも歩く旅をしてもらいたかったな・・・合掌

 

                                             写真=京都 哲学の道

 

 

 

 

 

 

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2014年

9月

02日

地産地消

 今年の夏はよく雨が降った。いや降ったと言うより襲撃してきたという印象だ。恵の雨というが、今年は全国いたる所に浸水や土砂ぐずれを起こし、人命を奪うなどして恐ろしい雨という印象だ。二年前には私の住む町にも大きな被害があり、義母宅もその犠牲になり苦しい年月を強いられたのだ。これも地球温暖化の影響が無いとは言えないであろう。


おかげで8月は日照時間が少なく、これから農産物が高騰するであろう。写真は地元で採れた夏野菜なのだが、とあるガレージでの無人販売でときどき通り掛りに買ってくる。色かたちは多少悪いが、生産者から聞くところによると、農薬もほとんど使ってないという。太陽の恵みをいっぱい吸収しているから、食べると体が活き返るような気がする。


先日、友人?(オーナパティシェ)のブログを読むと『食』という字を分解すると、「人」を「良」くすると書くという。なるほど、これまで食という漢字をそのように捉えたことがなかったな。 ということは、『飲』と書いて「人」が「良」くなることが「欠」けるのか?! たしかに、酒、コーヒー、薬など飲み過ぎると体を壊すし、亡き父親で経験済みだが、老人が機械的に鼻などから栄養剤を流し込まれているのは本当に生きている姿ではない。


食は人の心身を育てるもの、肉もたしかに美味しいが、これからは野菜、果物をその土地でしっかり栽培してその土地で『旬』を戴くことが人間力育成にも大切だと思う。たしかに雨風や虫獣に被害を被り、効率の悪い産業かも知れないが、これがいちばん自然に生かされている自分を発見できる生き方かも知れない、農家の方々には「そんなに甘いもんじゃねぇぞ!!」とお叱りをうけるだろうが・・・  しかし、世界がこれに気付き動きだすと、地球温暖化も解消されそうな気もしてくるのだが・・・






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2014年

8月

23日

究極の音楽療法

 今日は昼から、近所にあるデイサービスセンターの夏祭りに招かれ、歌とギター演奏で楽しんでもらった。高齢者施設で喜んでもらえるのは、童謡唱歌そして昭和歌謡だ。なかでも『いつでも夢を』が評判がいいのは、やはり中高齢者の青春時代を呼び起こすからであろう。男女みな大声で歌ってくれる。

 

さて、その『いつでも夢を』の作曲者の話である。

数日まえ放送されたテレビ番組を、風呂上りに何気なく眺めていたときのこと・・・

 

始まりは、一本のカセットテープが、あるレコード会社に送られてきた。第二次世界大戦に敗戦し満州にいた日本軍の多くが、ロシア軍に抑留され極寒の地シベリアへ送られ過酷な労働を強いられたのだが、歌声の主はその中の一人であった。そして、その歌を作った人の名前は、戦後に数々のヒット曲を世に出した吉田正氏である。

 

シベリアで凍え、食うや食わずの過酷な生活で、次々と死者が出て行くなか、吉田氏もその労働者の一人であったが、音楽の大好きな氏は、どんな苦しい時にも歌を作り皆に歌わせ、帰国出来るまで「生きよう!」と励まし続けたのである。

 

氏はすでに亡くなっているが、その歌はいま多くの人々の手で世に出ようとしている。出たかと思ったら、すぐに消えゆく歌の多い最近の音楽産業にあって、戦後70年近く「命の歌」として歌われていた曲があるのだ。

 

これが、究極の音楽療法ではないであろうかと、番組終了後も動けず感動に浸る私であった・・・

 

番組のナレーションを担当していた吉永小百合氏が「先生に歌の指導をして頂いていたとき、「小百合ちゃん、生きるとは大変なことなんだよ・・・」と、ふと漏らされていたのが忘れられない」と語られていた。

 

まだまだ、私の音楽観、人生観は薄っぺらいな・・・

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2012/6/14

 組踊(くみおどり)

 先週の土曜日(6/9)に琉球王朝の華『組踊』を京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場(春秋座)で鑑賞してきた。パンフレットをみると『組踊』は、琉球国の宮廷で生まれた音楽劇。琉球王の代替りに、新国王任命のために訪れる中国の冊封使をもてなすため、十八世紀初頭の踊奉行・玉城朝薫により創作された。能を参考に、沖縄の音楽や伝説を取り入れつくられ、その独特の味わいは日本はもちろん、世界にも類を見ないと 解説されている。十代の頃の十年間は沖縄で過ごしたが、地元の地味な音楽、芸能には見向きもせず流行りの音楽に没頭していた。ということで組踊は今回が初めての経験であり、しかもいつの間にか三十五年間も住んでしまった京都で鑑賞するとは人生とは不思議なものである。作品は「手水の縁」と「女物狂」の二作で、立方 宮城能鳳、歌三線 西江喜春の両人間国宝を中心に演じられた。ピンと背筋が伸び、腰の入った踊り芝居にも感動したが、歌三線を少々嗜んでる私としては琴、笛、胡弓、太鼓の演奏と共に、長時間の正座にもかかわらず、伸びやか艶やかに歌い奏でられる歌三線に心を奪われた。日々、精進しながら伝統芸能に励むことの偉大さを痛感したのであった。日本の象徴である京都の人も沖縄の歴史ある文化に驚いたことであろう・・・もちろん私自信が改めて誇りを感じたのであるが・・・

2012/6/1

   また逢う日まで

 1971年の大晦日、尾崎紀世彦がレコード大賞をとった。その時の私は、中学三年生で深夜まで高校受験勉強の真っただ中のはずであった。しかし、その頃の私といえば、ながら族でラジオの深夜放送に勉強以上に夢中になっていた。落合恵子やみのもんたの『セイヤング』、愛川欣也や小島一慶、野沢那智たちは『パックインミュージック』か『オールナイト・ニッポン』だっただろうか、私は流行りのフォークソングよりもビルボードTOP20などのポップスに心を虜にさせていた。その中でも(もしかすると記憶違いで、日本では流行したが海外では上位ではなかったかも知れないが・・・)ラテン系のリズムと伸びやかな歌声のエンゲルベルト・フンパーティングの『太陽は燃えている』に夢中になり、初めて英語の歌とギターを覚えたのである。そして、日本の歌謡界では尾崎紀世彦が『また逢う日まで』で衝撃のデビューを果たしていた。彼のルックスはフンパーティングによく似ていて(あの頃は和製何々というのが流行っていたな~エルビス・オン・ステージを真似てプレスリーの格好をさせた歌手もいたな~)声量のある伸びやかな歌声も負けず劣らずで、後に『太陽は燃えている』もカバーするようになった。というわけで日英の歌手は私の歌唱法に大きな影響を与えたのである。

 ありがとう!  心よりご冥福を祈ります。

2012/5/29

 私=地球かな?

 本来、ホームページのトップには宣伝したい商品とか、活動情報など具体的なものを載せるべきなのだが・・・

この年齢になると、要るものも要らないものもたくさん背負い込んでいる。そこで暫くは棚卸をしようと思っている。前回ふれた話題を基に、まずは二十歳(学生)の時を基準にそれ以前の幼少期、思春期、青春期。それ以後の青年前期、後期。そして中年前期、後期に分けながら整理してバックパックに入るぐらいの荷物を詰め込む作業を開始してみようと思う。整理する順序はどこからでもよいだろう。自由気ままに取り出して、分別ゴミに出そうか?リサイクルにだそうか?今年の夏は節電対策が重要だから、なるべくエネルギーも無駄にはできないな~ これができれば、私オリジナルの商品ができ上がり、バックパッカーとして活動もスムーズになりそうだな~

2012/5/27

 若き日々との出会い

 25日の金曜日に一年間の経過観察と言われた胆のうポリープの検査をしてきた。結果~ また一年間の経過観察・・・『定年』という文字が少し先にチラつき始めると、なんか心身が弱気になるな~ 帰りに本屋に寄ると、『僕が旅に出る理由』いろは出版 という本が目に飛び込んできた。海外を旅した100人の大学生がつくった本だ。「留学を夢みている同じ年頃の娘や家族もよめるやん!」と購入したのは~言い訳かな。実はあの頃の自分が恋しかっかのかも知れんね~   京都音楽療法研究会が新規に発足してホームページができた。投稿しているうちに、ただでホームページができる広告が気になり、エイヤッ!と作ってみた。人生には定年はない(経済的にも定年なんかしてる場合ではないよ)のだからね。これを機に、あの頃のようにバックパックをかついでるつもりで、新たな旅に出ようか・・・  さすらいのバックパッカーってね・・・(笑)

 

2012/5/26  その2

   瞑想かな? 

心の声を聴きながら、自分のできることをゆっくりと、じっくりと取り組み生きてみるとは・・・

 

 

2012/5/26

 ホームページ作成中!

 どんなんできるかな?

ゆっくり、じっくりと・・・

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