カントリー・ロード

 ひと月まえの事であるが、私としては高校を卒業した春以来、39年ぶりに生まれ故郷に行って来た。今回は、きょうだい全員そろっての旅で、きょうだいが揃って宮崎に足を踏み入れるのは、家族が沖縄に引っ越して以来、なんと49年ぶりなのである。名目は上の姉が古希を迎えたのを記念しての旅であった。

 

前日の夕方に上の3人が那覇から宮崎までは1日1便しかない飛行機で先着して、私は1日遅れの早朝に伊丹からの便で合流した。早速、宮崎市内のネットで予約しておいたレンタカーで宮崎神宮、平和台公園を訪れ、カントリー・ロードにあたる県道26号線に乗り故郷の国富町を目指した。

 

30分ほどの道程に上の3人は、通りすぎるバス停や景色に歓喜する。この地での生活が小学校3年の1学期までの私と、宮崎市内まで高校通学をしていた3人との思い出は遥かに違うのだった・・・

 

国富町の本庄に着き、姉達や兄が卒業した、小学校から中学校の2キロ程の生活圏を散策して回った。本庄の十日町は私が生まれ育ち、沖縄に引っ越すまで過ごした場所である。その後、兄が生まれた八代に車で20分ほど田園や畑、森や竹林のある坂道を走り、私が誕生する前の家族の借家を訪ねた。そして国富町からさらに奥にある綾町で、日本最大級の吊り橋をビビリながら経験し1泊をした。翌日はかなりの雨の中、日南海岸をドライブして、姉の友人お薦めである飫肥城まで足を延ばした。

 

最後の夜は宮崎市内で1泊してカラオケに行き、それぞれ思い思いに歌ったのだが、兄はさだまさしの『無縁坂』を歌ってる途中にボロボロと涙を流し出したのだ。第二次世界大戦での沖縄戦で九州に疎開し、大分で長女を亡くした両親は、戦後に宮崎市に身を寄せ仕事を探した。縁あって八代に職が得られ、母と3歳の上の姉と宮崎市で生まれたばかりの下の姉を連れ、自転車で延々と坂道を八代に向かったのである。今回の車での道程でもかなりの距離と実感した道中に、両親はどのような心境で歩いたのであろう。そんな景色を見た後のカラオケで、八代で生まれた兄は、歌の歌詞と母を重ね感極まったと思う。さすがに歌えなくなった兄は2番の歌詞を、私にマイクを譲ったのだった・・・

 

今回は短い故郷への旅なので、それぞれが親しい友人知人と会うことは叶わなかった。しかし当時、われわれ子供達がそれぞれに色々な喜怒哀楽を経験できたのも、親の庇護があってこそなのである。こうして今を生かされている不思議を、きょうだいで確認できた旅となった・・・

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    律子 (金曜日, 11 7月 2014 13:37)

    しばらくブログを覗いてませんでした(^_^;)残念です。連絡もらえたら30分でも1時間でも皆さんにお会いしたかったです(-_-;)39年前、友サンタさんが帰るとき昼休み時間、見送ろうと駅まで行き会えず会社に戻った事思い出しました(^_^;)お姉さん古希のお祝いだったんですね!おめでとうございました。私達が58歳、上の兄が今年61歳。昨年競馬場を退職して父の残した畑や山の管理をしています。長姉が今年63歳保育園の調理師をしながら、孫の面倒見て忙しく働いています。長兄は埼玉で退職後、X線技師の仕事をパート程度に続けています。お互い年をとりましたが、動けるうちにもう一度会いたいですね(*^^)v

  • #2

    ともさん (土曜日, 26 7月 2014 00:37)

    何せ短い旅で、みなさまにお会いできず、申し訳ありませんでした。

What's New