生きがい

 年が明け、二月も十日になり中華圏では旧暦の正月の春節が始まったということだから、日本にも観光客が押し寄せる。そんな中で京都においても、またオーバーツーリズムが懸念されているようだ...

 

旧暦には確かに季節感がある。節分を終えたとは言えまだ外は寒い。が、部屋の窓ガラス越しに感じる日差しは眩しく、春を感じることができる。これこそが新春という言葉に相応しい年明けなのだろう。

 

宮崎生まれの私が両親の里の沖縄に引っ越したのは小学校3年生の夏休みだった。ちょうど昭和40年ということになるのかな?そんな沖縄は、まだまだ旧暦での行事がたくさん残っていた。新暦で正月を祝った後に、年配者を中心にまた旧暦の正月を祝ったり、シーミー(清明祭)、旧盆、ムーチー(鬼餅)など行事に合わせて色々な行事食を、宮崎時代には食卓に並ばなかった料理や菓子類を、母や小さなマチヤーグアー(雑貨屋)を営んでいた祖母が作ってくれたり、牧志公設市場で揃えてくれた記憶がある。

生前の父母に戦前の話を聞いた記憶だが、この母方の祖母は祖父の経営する泡盛の造り酒屋を一生懸命に切り盛りしていたようである。そして沖縄戦の始まる前に母の嫁いだ父方の家族と共に九州へ疎開した。母方の祖父は最後まで店や地域を守り、やんばる(北部)へ逃げたが戦死(餓死)した。戦後、娘(母)の家族を残しアメリカ統治下の沖縄に帰郷した祖母は店も土地も全て失った場所から、猫の額ほどの土地を取り戻し、写真にあるバラック小屋のような家を建ててマチヤーグアーを始め、せっせと小銭を貯めては娘の家族に仕送りをしていた。

 

戦後10年ほど経った昭和31年に宮崎の田舎町に末っ子として生まれた私には、祖母から送られてくるアメリカの製品は質素な生活をしていた時代に宝物のように見えていた。そんな私は小学校に上がるまでの三歳と五歳くらいの時に、母に連れられ沖縄の地を訪れ、祖母の店兼住いに泊まった。幼い私に今も記憶があるくらい、肩を寄せ合い寝た小さく粗末な建物だった。そんな粗末な家でも、写真にある木枠のショーケースの中と、氷で冷やすバヤリースのアルミの保冷缶の中は宝物の箱だった。その後、上記したように昭和40年に引っ越したときはその家も建て替えられていたが、相変わらず祖母はマチヤーグアーをしていた。そして、念願の日本復帰の昭和47年頃のことだが、わが父も頑張ったのか、その土地の周りを少し買い足して鉄筋2階建ての家を建て、母の念願だった祖母との同居を果たした。

 

 そんな祖母は同居し安心して隠居してのんびり余生を送ったのか...

いえいえ、日に如何ほどの売り上げがあったのか、九十代半ばで寝込むまで家の一角でマチヤーグアーを切り盛りしていた。

 

 人にとって生きがいとは...  

 

 元旦の夕方に能登半島中心に大地震が起き、多くの命が犠牲になっている。そして、多くの住まい建物が全壊や延焼で住めなくなり、多くの人達が避難したままで報道を見る度に心が痛む...  

募金の他にも何かできることはないのか...  

輪島の朝市、輪島塗など代々多くの人たちが受け継いできた伝統を絶やさないようにと思う旧暦の正月である。

 

 

 

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    みさこ (日曜日, 25 2月 2024)

    明治生まれの人は強い❗若い頃から辛酸をなめてきたのに、優しくて、穏やかな人でした。晩年は直系の子や孫、ひ孫に囲まれて、幸せそうでした。

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